Dripped

「……ええ、そうですね、イリヤの空は好きです。『アルミホイルに包まれた心臓は六角電波の影響を受けない』」
蒸し暑い夏の夕べに、ふと読みたくなる一冊ですよね、と霧宮さんは続ける。
「しかし、秋山先生の新作が最後に出たのっていつだったかしら。2003年あたりに何か短編を書いていたような気がするけれど」
「ああ、じゃあもう10年も何も出してないことになるんですね――」

……ああ、会話が続いているなあ。
僕は頬杖をついて、ぼんやりと藤夜先輩と霧宮さんのやりとりを眺めていた。
藤夜先輩が本好きなのは言うまでもなく、霧宮さんもそこそこ読書家らしく、二人は本の話題ですっかり盛り上がっていた。
初めは僕も会話に加わっていたのだが、いつも通りというべきか――放課後のこの時間は、何故かすごく眠くて。
気づくと一人、ソファでうつらうつらとしていた。
ぼーっと二人を眺めていると、ふと藤夜先輩と目が合う。
「あら、黒峰くんはおねむの時間かしら」
先輩は笑いながらそう言うと、走らせていたシャーペンを置いて僕の隣に座る。ふわり、とラベンダーの香りが漂って、僕はぼんやりと先輩の顔をみる。
藤夜先輩は微笑んだまま、ぽんぽんと膝をたたく。
「……?」
眠気に支配された頭で考えるが、どうにもよくわからない。
黒いストッキングを履いた、すらりとした綺麗な脚だ。
「ほら、どうぞ。膝枕してあげるわ」
ひざまくら。
それは、まずいのでは。
と思った時には、そっと肩を引き寄せられて、先輩の膝の上に頭を凭せ掛けていた。
やわらかい。
ストッキングの薄い繊維ごしに先輩の滑らかな肌と柔肉を感じる。人肌の温かみが、喩えようもなく眠気を誘った。
「大丈夫よ、霧宮さんの相手はわたしがしておくから」
頭を撫でられて、僕は否応もなく眠りに落ちてゆく。



「――さて、霧宮さん」
眠りについた黒峰くんを、我が物のように撫でながら、わたしは霧宮さんに呼びかける。
にっこりと笑みを浮かべて。
「黒峰くんも寝たことだし――今日はもうお開きにしましょうか?」
彼女は小首を傾げてみせる。肩口で切りそろえた髪がゆらりと揺れる。
「でも、先輩――先輩にとっては、むしろこれからが本番ですよね?」
彼女の無表情な口元は、いびつに歪んでいた。
「どういう意味かしら?」
「とぼけないでください――あなたが寝てる彼にどんなことしてるのか、わたしは見てましたから」
「……っ」
思わず彼女を睨む。彼女の赤い目には、嗜虐的な光がちらちらと揺れている。
「どうやって知ったの?ここを覗けるような場所なんてないはず――」
「覗ける場所なんて、たしかに『人間にとっては』ないでしょうね。でも『わたしにとっては』いくらでもありましたよ」
「……まさか、あなた」
「ええ」
霧宮は小さく笑うと、擬態を解いた。
制服のシャツがねっとりと湿り、透けて見える肌は深紅。
小さな口から不釣合いなほど大きく、太い舌がでろりと伸びる。
「ミューカストード――濡れ蛙めが」
「おや、よくご存知で。魔物娘の勉強も怠っていないようですね」
霧宮は伸ばした舌を黒峰くんに顔に伸ばす。庇う間もなく、彼の顔をひと舐めすると、いやらしい笑顔を浮かべた。
「ああ、おいしい……こんな素敵なものを独り占めするなんて、やっぱり許せませんね」
「このっ……!」
ハンカチで黒峰くんの顔を拭おうと手を伸ばすと、何か紐のようなものがわたしにまとわりついて動きを封じた。
「これは、何……?」
手足は動かせるが、ソファに身体を固定されて立ち上がれない。
「わたしの粘液でつくった紐です、痛くはないでしょう?しばらくそこで大人しくしててください、『終わったら』また戻ってきますから」
彼女はそう言って舌で黒峰くんを巻き取る。
「なんで……こんなことが……!」
憎悪に満ちた眼差しで霧宮を――蛙を睨めつけると、彼女はくすりと笑った。
「関係を曖昧にしたまま、甘い汁啜ってたから、じゃないですか? 啜るのは蛙のほうが上手ですよ?」
言い捨てると、彼女は黒峰くんを連れていずこかに去ってしまった。

「曖昧に、したまま……」
彼に依存して。陵辱して。貪って。
悪いのは、わたし――



「――いいえ」
彼はとっくの昔からわたしのもの。
彼はそれを「知らなかった」だけだし、わたしはそれを「伝えなかった」だけ。
「勘違いしてるのはあなたのほうよ、蛙さん」
わたしは笑んで、懐から一包の錠剤を取り出す。
「少し待っててね、黒峰くん――」
すぐに濡れ蛙から助けてあげるから。
わたしはあなたの彼女だもの。



***



 人目につかないように移動しながら、わたしはほくそ笑んでいた。
皮肉なことに、そもそもわたしが彼――黒峰先輩のことを好きになったのは、藤夜先輩のおかげだった。

わたしがこの高校に入ったのは
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