桃源郷の悦楽

 川の両岸に桃の花が咲き乱れていた。ゆるやかに流れる川面に、薄赤い花が映っている。その川面を、一隻の小舟がゆっくりと遡っている。
 小舟には、二人の者が乗っていた。一人は若い男だ。何の変哲もない青い服を着て、のんきな表情で桃の花を眺めている。ただ、その顔にはどこか険しさがある。もう一人は異形の女だ。手足は黒と黄の縞の毛皮で覆われ、尻には同色の毛で覆われた尾が付いている。茶色の髪がたなびく頭には、獣毛の生えた耳がついている。彫の深い美貌は、若さと精悍さに溢れている。彼女は、辺りに油断なく目を配りながら櫂を漕いでいる。
「まるで桃源郷だな。このまま下らない世を離れる事が出来そうだ」
 男は楽しげに笑う。
「本当に桃源郷に行くかも知れぬな」
 虎の特徴を持つ女が無表情に言う。怪訝そうに女を見る男に、女は川上を指さす。川上からは、白い霧が漂ってくる。
 男は険しい顔で笑い、女は刺すように霧を見る。霧は桃を映し出す川面を覆い、そして二人を飲み込んだ。

「俺達は、あの世へ来たのか?」
 男は、目の前の光景を見てつぶやく。女は答えずに、目の前の光景を刺すように見つめ続けている。
 彼らの態度は、当然のものかもしれない。霧から抜けた所には、一面の桃の花が見えた。何百、あるいは何千と言う桃の木が辺りに広がっているのだ。見渡す限り、薄赤い花が広がっている。その花の中を、川が流れている。
「お前の言う通りだとすると、あそこは死者の住みかという事になるな」
 人虎である女は、緊張感を隠さずに言い放つ。男は、女の視線の先を見る。桃源の最中に、人家の集まりが見えた。近づくにつれて、その人家は数百に上ることが分かる。朱色の柱と白壁、そして瑠璃色の屋根瓦の目立つ建物が並んでいる。
「どうする?」
 男は、声を低めて尋ねる。
「行くしかあるまい。もしかしたら目的の地だ」
 女のそっけない言い方に、男は軽く笑う。
 集落には船着き場があり、虎の特徴を持つ女は船をつける。二人は岸に降り、集落とそれを取り囲む桃の木を見つめた。

 二人は、里長の家へと連れていかれた。里長の家は、他の家より少し大きい程度の物だ。だが、他の家同様に朱塗りの柱と白壁、瑠璃色の屋根瓦が美しい。桃源郷にふさわしい瀟洒な家だ。
 二人は、長の待つ一室へ案内された。その一室も、朱塗りの柱と白壁が映えている。その一室には、二つの調度が置いてある。一つは、狐と人が戯れている姿を描いた絵だ。もう一つは、虎に人が跨っている姿を描いた青磁の置物だ。調度品に詳しくない男と人虎の女にも、良い品だと分かる。部屋の中に過剰な装飾品が無い所が、品の良さを感じさせる。
 里長を見た瞬間に、二人に緊張が走った。里長は若い女だ。だが、人ではない。妖艶な顔は人の物だが、獣毛に覆われた尖った耳が頭に付いている。柔らかそうな獣毛の生えた五本の尾が、女の背後で蠢いている。里長は、妖狐と言う魔物だ。妖狐は、尾の数で格が決まる。五本の尾を持つという事は、かなりの実力者だ。
 里長は、愛想良く挨拶をした。だが、対する男と人虎は固さの取れない挨拶をする。妖狐は、実力者ともなると国を覆す事すら出来る。緊張するなと言う方が無理だ。一通り挨拶と自己紹介が終わると、里長は切り出す。
「どうぞこの里でおくつろぎ下さい。私達は、あなた方を歓迎します。あなた方が望む時まで、この里にご滞在ください」
 里長は、朱を塗った唇の端を吊り上げる。
「私どもは来る者は拒まず、去る者はどこまでも追いかけますので」
 男と人虎は、素早く視線を交わして身構える。
「冗談でございますよ。この里に閉じ込めたりしませんのでご安心下さい」
 里長は、艶麗な顔に笑みを浮かべる。男と人虎も笑みを浮かべるが、緊張は解けていなかった。

「さて、どうする瑞麗?」
 二人にあてがわれた家に入ると、男は人虎に尋ねた。
「ここが桃源郷ならば、居るのも良いだろう。そろそろ一つの所に落ち着きたいところだった」
 瑞麗と呼ばれた人虎は、部屋の中を見回しながら答える。あてがわれた家は、良い造りで清潔だ。
「桃源郷に見せかけた地獄で無ければ良いのだがな」
 瑞麗は皮肉な笑いを浮かべる。
「桃源郷に見せかけているだけマシさ。地獄である事をむき出しにしている所が多いからな」
 男は吐き捨てる。
「では、ここに居るつもりか、鉄林?」
 尋ねる瑞麗に、鉄林と呼ばれた男は軽く笑いながら答える。
「居るつもりさ。糞みたいな所を歩くのには飽きた。それに桃の実を食いたい」
 鉄林の答えに、瑞麗は呆れたように、そして面白がるように笑った。

 鉄林と瑞麗は、里で暮らし始めた。家だけでは無く、畑も貰う事が出来た。里は、新たな人手を必要としているからだ。鉄林は以前農民であり、畑を耕す事は慣れている。瑞麗は武闘家であり
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