魔犬の山

 男は、岩と木で覆われた坂を走っていた。道らしきものは無く、石の転がる荒れた地面が道代わりだ。歩く事すら辛い坂を、男は駆け上がっている。岩と木で日は遮られ、辺りは昼にもかかわらず暗い。その影の多い場所で、男は荒い息をつきながら走っていた。
 男は石に躓き、荒れた地面に叩き付けられた。男は、よろよろと立ち上がる。男の手足は擦り剥け、血が滲んでいる。岩の影から日が差し、土埃と汗、血で汚れた男の姿が露わとなる。男は、口から唾を吐きながら再び走り始めた。
 男の胸と手脚は激痛を訴えている。だが、それでも男は走らねばならない。捕まれば、嬲り殺しにされるのだから。

 ギディオンは憶病な男だ。農奴として虐げられてきて、暴力に怯える日々を送ってきたためだ。激しい収奪をされても、死なずに済むのならば反抗したりはしない。
 だが、死がギディオンに迫って来た。領主とその臣下達の虐待と収奪は、激しさを増して来た。既に領内では、虐殺される者や餓死する者は珍しくなくなった。そして一つの噂が広まっている。働きの悪い農奴は、領主の手で秘密の場所で強制労働をさせられて死ぬのだと。現に、領主の臣下によって多くの領民が連れ去られていた。
 この暴虐の嵐を、ギディオンは身を縮めてやり過ごそうとした。だが、農奴の中でも立場の弱いギディオンは、のがれる事が出来ない。領主の臣下が、ギディオンの住む掘立小屋に迫って来た。
 ギディオンは逃げ出し、領主の臣下に追い立てられた。ギディオンの無様な逃走を、領主の臣下は笑いながら追いかけ、他の農奴は噴き出しながら眺める。ギディオンは嬲られながら逃げ回った。
 その喜劇めいた逃走は、ギディオンの行為によって凶暴なものと変わった。からかいながら領主の臣下がギディオンの前に立ちふさがり、ギディオンを捕まえようとした。その時ギディオンは、以前盗んだ短剣でその領主の臣下を刺したのだ。ギディオンの反撃を予測していなかったその男は、心臓に短剣を突き立てられ血を噴出しながら倒れた。
 その光景を見て、領主の臣下は憎悪と殺意をむき出しにして追い回し始めた。ギディオンの側に偶然いた農奴は、領主の臣下によって槍で突き刺された。その男から噴き出した血が、ギディオンにかかる。その血を浴びて、ギディオンは小便を漏らした。ギディオンは弱い男であり、ギディオン自身訳も分からない状態で領主の臣下を刺してしまったのだ。反抗心から刺したのではない。
 恐怖と錯乱から、ギディオンは滅茶苦茶に逃げ回る。そして「魔の山」へと逃げ出した。

 ギディオンが住んでいる所には、「魔の山」と呼ばれる所が有る。岩と木、そして霧により昼でも薄暗く荒れた山だ。この山には魔犬が住むと言われ、夜になると犬とも狼とも知れぬ遠吠えが聞こえる。この山に入った者の中には、行方不明になる者も多い。その為、地元の者で魔の山に入る者はほとんどいない。
 臆病者のギディオンは、一度も魔の山に入った事は無い。だが、魔の山以外に領主の臣下から逃げる事が出来る場所は無い。村の中は敵だらけだし、街道へ出る道も先回りされた。農奴達が動員されて、林や平原も捜索されている。農奴達は、ギディオンを見つけたら喜んで領主の臣下に差し出すだろう。ギディオンは、魔の山に入る以外の選択肢は無いのだ。
 ギディオンは、汗と血、土埃そして小便で汚れながら逃げ回った。領主の臣下は、槍や剣を振りかざし、矢を射て彼を殺そうとしている。ギディオンのすぐ横の木や足元の土に矢が刺さる。ギディオンは飛び跳ねたり転がったりする。小便が出尽くしてなければ、再び小便を漏らしただろう。辛うじて大便は洩らさなかった。
 ギディオンは、涙と鼻水と涎で顔を汚しながら、槍と剣、矢から逃げ続けた。ギディオンは、魔の山の奥へと入り込んでいく。立ち止まり方向を変える余裕などない。ただ、憎悪と殺意をむき出しにして自分を追う者から逃げ続ける。
 気が付くと、追手は消えていた。そして自分が来た道を見失い、自分が今どこにいるのか分からない。木と岩がギディオンを囲み、影多い場所は不自然なまでの静けさが支配していた。

 ギディオンは寒気を感じた。汗で濡れた体は、まだ冷えておらず火照っている。それにもかかわらず全身に悪寒が走るのだ。
 雰囲気がまともではないのだ。人間とは全く異質な存在が、この場所を支配している。突き刺すような雰囲気に、ギディオンは体を震わせる。
 ギディオンは、魔の山の伝説を思い出す。人間以上の巨体を持つ黒い犬が、眼から炎を出して徘徊しているという。その魔犬には剣や槍、矢は通じない。その魔犬に捕まった者は、全身を食い裂かれ骨までしゃぶられるそうだ。その魔犬は地獄の支配者の配下であり、犠牲者の魂を食らうという。
 ギディオンは立ち止まり動けなくなった。逃げ出したいがど
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