神鳥の懐で

 夜の砂漠に月が出ていた。青白い月は、一面の砂の世界を冷ややかに照らしている。昼の酷熱の砂漠と対照的に、夜の砂漠は冷たい。
 青白く光る砂の上に、黒いものが転がっている。襤褸切れの様な服を纏った男だ。左頬には傷が有り、流れ出す血が砂に染み込んでいる。時折動く事から生きている事は確かだが、この砂漠に横たわっていれば遠からず死ぬだろう。
 砂丘の影から一つの影が現れた。影はゆっくりと倒れた男に近づき、男の前でしゃがみこむ。影は、じっと男を見つめていた。

 バラーンタカは、火の爆ぜる音で目を覚ました。バラーンタカは跳ね上がろうとするが、上手く力が入らない。仕方なく首だけを左右に動かして様子を知ろうとする。バラーンタカは、自分は寝台に横たわり、寝台の右側にある竈の火が爆ぜているのだと知った。砂漠で倒れたはずの自分が、何故家の中にいるのか訝しんだ。
「目が覚めたか。あまり体を動かさない方が良い、休んでいろ」
 男の声が右斜め後ろから聞こえた。首だけ動かして声の方を見ると、紫の糸で刺繍された白い服を着た若い男が立っている。服の意匠から神官だと分かる。とたんに嫌悪と憎悪が男の中に湧きあがる。跳ね上がろうとしたが、力が入らずに寝台に倒れ込む。
「お前に危害を加えるつもりは無い。興奮せずに休んでいろ」
 神官は宥める様にゆっくりと言うと、寝台から離れた。
 バラーンタカは、眼をぎらつかせながら離れて行く神官を見つめていた。

 バラーンタカは、オアシスにある村に保護されていた。バラーンタカが倒れていた所から一刻ほどの所にある。砂漠に生える草を採集しに来た神官に発見され、保護されたのだ。
 バラーンタカは、何故このように寝台に寝かされているのか不審に思う。バラーンタカの風体を見ればまともな者では無いと分かるだろう。看病の際に体を調べれば、奴隷の焼印が見つかるはずだ。最高位の階級に属する神官が、逃亡奴隷である自分を助けるはずが無い。
 神官はヴァーシシカと名乗り、自分は愛の女神に仕える神官だと言った。このオアシスの村の祭祀を司る者だそうだ。愛の女神に仕える者は、砂漠で倒れた者には手を差し伸べるのだそうだ。
 バラーンタカは、無表情を保ちながら内心笑う。この国で最高位である神官が、奴隷である自分をそれだけで助けるはずはない。「愛の女神」に仕えていると言うが、奴隷には愛など関係ない。裏があると考えない者は低能だ。
 無表情の影で、バラーンタカは不信と憎悪の念を煮えたぎらせる。虐げられ続けて来たバラーンタカは、上の階級の者を憎んでいる。全身を切り刻んでも飽き足らない。だが、今は慎重にふるまわなくてはならない。体の調子は回復していない上に、懐に入れた小刀は取り上げられている。第一、ここはオアシスであり逃げ場はない。
 バラーンタカは、感情を隠しながら様子を探り続けた。

 バラーンタカの読みは、保護されてから十日目に当たった。ヴァーシシカは、バラーンタカに要求してきた。北西にあるオアシスの中にある神殿に行き、神鳥ガンダルヴァに書簡と聖具を届けて欲しいと要求してきたのだ。その任を果たせば金貨を渡し、逃亡する手助けをしてやろうと言うのだ。
 バラーンタカは、内心要求に応える気は無かった。神官が奴隷相手に約束を守るはずが無い。だが、断れば逃亡奴隷として役人に突き出される。機会を見て逃げ出すしかない。
 バラーンタカは、愛の神官の涼しげな顔を石で打ち砕く妄想をしながら自分の気を沈め、要求に応えると約束した。

 激しい日が照り付ける中、バラーンタカは布を張った影に隠れていた。日中の砂漠を歩く事は、自殺行為でしかない。夕方から夜にかけて歩く。それまでは影の中で身を潜めていなければならない。
 バラーンタカは鼻を蠢かせて臭いを嗅ぐが、自分ともう一人の男の臭いしかしない。砂漠は無臭の世界だ。嗅ぐ事が出来るものは、自分と周りの人間の体臭くらいだ。そんなものを嗅ぎたくは無かったが、無臭が続くと不安になってくる。
 もう一人の男は、神官の下で使い走りをしている男だ。今回の使いに同行している。男は最低限の口しかきかず、表情もほとんど出さない。
 バラーンタカは、自分が使いに選ばれた理由が分からない。使いを出したければ、他の者はいるはずだ。行き倒れの逃亡奴隷に、書簡と聖具を神鳥に届けさせるはずが無い。裏があると考える事は当然だ。
 考えられる事は、自分達は囮だという事だ。おそらく書簡や聖具を狙っている者達がいるのだろう。偽物を自分に運ばせ、本物は別の者に運ばせる。自分が襲われてくれれば、あの神官にとっては都合が良いのだろう。
 バラーンタカは歯ぎしりをする。逃げ出したくとも逃げ出せない。水と食料は、もう一人の男が持っているのだ。地図ももう一人の男が持っている。おまけに、もう一人
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