男は荒れ地を走っていた。辺りは岩と丈の低い草が生えるばかりで、曇り空の下に荒涼とした光景が広がる。男は、岩と岩の間をくぐりながら足を動かし続けている。
男はまだ若いが痩せて無精ひげを生やし、着ている粗末な服は土と泥で汚れていた。乱れた髪の下から険しい視線を辺りに突き立て、汚れた体から汗を飛ばして走っている。男は唾を飛ばしながら、不明瞭な声で呪詛の言葉をまき散らしていた。
男の後ろを複数の者が走っていた。全員制服の様な黒服を着ており、槍や剣を持っている。中には犬を連れて走っている者もいる。追跡者達は、余裕のある表情で逃げる男を追っていた。
法の番人気どりかよ、犬の分際でつけあがるな!逃げる男は、荒い息をつきながら吐き捨てる。男は、唾を唇の端からこぼしながら呪詛を続ける。法も正義も糞なんだよ!金と権力のある奴を守るためにあるんだよ!飼い主に媚びへつらう駄犬どもめ!男は呪い、罵り続ける。
男は嗤う。俺の人生は駄犬に殺されて終わりかよ、下らねえ。男は、苦しさのあまり鼻水を流しながら嗤う。男は駄犬を、飼い主を、法を、自分の人生を、世界を、全てを嗤いながら逃げ続けた。
男は、追跡者の気配が変わった事に気が付いた。先ほどまでの追跡者の気配は依然としてある。別の者が加わったようなのだ。今までとは数段上の獰猛さと力強さ、そして獣じみた気配がする。犬を連れて自分を追跡しているのかと思ったが、犬とは存在感が違いすぎる。狼よりも強大な存在感を感じる。
なんだこれは?俺を追っている奴は何だ?男は、肌が泡立つ事を自覚する。猛獣、いや怪物に追われているのではないかと言う気がしてくる。馬鹿な、そんなわけ無いだろ!男は妄想を振り払い、必死に逃げ続けた。だが、怪物の気配は後ろから確実に迫ってくる。男の体を悪寒が繰り返し走る。
男は、後ろを振り返る気が無かった。圧倒的な存在が自分の背に迫っている。しかも人間の気配では無く、野獣とも怪物ともつかない存在の気配だ。男は、子供のころ夜道で感じた恐怖を思い出す。男は憶病であり、子供時代に背後の闇に恐怖を感じた。その時の事が実感を持って、今迫って来た。
男は懐から小刀を取り出す。男の凶行により幾度も血に濡れた小刀だ。男は、震えながらも激しい身振りと共に後ろを振り返る。男は、背後の「それ」を見た時、眼が裏返りそうになった。男の口からかすれた呻き声が上がる。
男が見た物は炎だ。意志を持った炎が、男を見据えて心の中へと突き刺さってくる。男は炎から目を逸らすと、歯を食いしばって再び炎を見る。炎だと思った物は赤い眼だ。黒い獣毛と暗灰色の肌を持った獣が、眼から炎を迸らせて男を見据えている。灰色の空の下、暗灰色の岩の上で、黒い怪物が業火の眼で男に視線を突き刺していた。
男の体は痺れたように、男の思う通りには動かなくなった。頭の中が空転するような感覚が有り、まともに考える事が出来ない。ただ、馬鹿の様に怪物の炎の眼を見続ける。
背に鋭い痛みが走った。無意識に後退る男の背に、尖った岩肌がぶつかったのだ。男の体に自由が戻り、頭が働き始める。男は弾かれた様に怪物に背を向け、岩の間をくぐって走り出した。
男が走り出した瞬間に怪物は飛び跳ね、男の背に飛び掛かった。男は地面に叩き付けられ、怪物の手足に抑えつけられる。男はもがくが、怪物の人間離れした力をはねつける事が出来ない。石で覆われた地面の上で体を傷付けながらもがくばかりだ。
怪物は男を腋に抱え込むと、そのまま地を蹴立て岩の間を走り抜けていった。
男は、薄暗い空間の中で気が付いた。辺りは濃い影で覆われている。灯りが見えたので目を移すと、火が焚かれている。火の側に黒い影がうずくまっていた。男はまなじりを開く。黒い影は自分を襲った怪物だ。
「気が付いたようだな」
低い女の声がした。男は辺りを見回すが、女の姿は無い。
「何を探している?」
再び女の声が響く。男は黒い影を凝視する。その黒い怪物が女の声を発したのだ。
「あたしの名はメガイラ。お前の名は?」
男は、メガイラと名乗る怪物を見た。焚き火に照らされているが、黒い獣毛と肌の為に暗黒の化身に見える。その暗黒の中で炎の瞳が燃え盛っている。
「クレイグだ」
男は吐き捨てるように言う。
クレイグがいるのは洞窟の中だ。クレイグの体にはマントが掛けられている。洞窟の入り口の所に焚き火が有り、メガイラと名乗る怪物がその傍らにいる。既に夜になっているらしく、洞窟の外は闇だ。
クレイグは、怯えながらも怪物の姿を観察した。怪物は、人間の体に犬の特徴を備えていた。手足は黒い獣毛に覆われ、紫色の大型の爪が生えている。耳や尻尾も犬のものであり、黒い毛に覆われている。体の大半は人間の特徴を持っており、大柄で肉感的な若い女の体をしていた。
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