月王と堕ちた戦乙女

 「鏡の間」では三千本の燭台が並べられ、蝋燭に火が灯されていた。壁面いっぱいに張り巡らされた鏡に、金銀の燭台と蝋燭の火が無限に映っている。もし、舞踏会の最中ならさぞ映える光景だろう。だが、「鏡の間」にいるのは二人だけだ。
 一人は、豪奢な衣服をまとった中年男だ。贅肉がつき膨張した体をゆすりながら、広間を歩き回っている。目は落ち着きなくさ迷い、一つの所に焦点を合わせようとしない。
 もう一人は女官だ。形式ばった女官の服を几帳面に着こなし、直立不動で立っている。整った表情は無表情であり、彫像を思わせる。
 金銀と灯りの中を男はさ迷い歩き、女官は立ち尽くし続けた。

 王は、かつては美貌を謳われていた。王はその容姿ゆえに、太陽王と呼ばれていた。今ではその面影はない。
 王は暴飲暴食を繰り返し、運動を怠った。生活は不規則であり、昼に眠り夜に活動をした。その結果、贅肉で膨れ上がった胴体の上に膨張した顔を乗せる事となった。似合わない髭が、王の見苦しさを増している。
 王は人前に出ることを嫌い、自分の周りにもわずかな者しか近寄らせなかった。
 王は、生身の人間よりも絵や彫像、機械仕掛けの人形、物語の中の人を愛した。月の光や燭台の灯りに照らされた彫像や人形を愛した。
 かつて太陽王と呼ばれた王は、今では月王と呼ばれていた。狂気を表す名だ。

 王宮内の劇場では、劇が演じられている。金銀にきらめく衣装をまとった役者たちが、光に照らされた舞台の上で激しい動きを見せている。闇に沈んだ客席には、二人の観客しかいない。
 芝居の練習をしているのではない。この上なく緊張に満ちた本番だ。観客は王だ。王は一人で劇を見ることを好んだ。神聖不可侵の身である自分を、他の観客の前に見せる事を拒否しているのだ。真夜中に、自分一人のために劇を上映することを命じた。王と共に観劇する事を許されたのは、王の世話をする女官のみだ。
 劇場の中に一人の男が入ってきた。王の側により耳打ちした。
「陛下、戦況の報告をいたします」
 王は苛立たしげにさえぎった。
「侍従長よ、今、余が何をしているのかわかっているのか?」
 侍従長は黙り込んだ。
「後で聞く。下がれ」
 王の命に、侍従長は一礼して下がった。
 舞台は、白鳥の騎士が現れる場面になっている。美青年の騎士が、白鳥の形をした乗り物に乗って静かに進んできた。
「無粋なやつだ。せっかくの場面を見逃すところだったではないか」
 王の苛立ったつぶやきに、女官は無言のままだ。
「俗事で余を煩わせるな」
 誰に言うともなく、王はつぶやいた。

 王の治める国は、北の強国と南の大国にはさまれている。両国は激しく対立し、ついに戦争に突入した。王は南の国に加担した。北の国の覇権主義に対抗するためだ。もっとも、王は北の国が勝つことを予測していた。北の国に対して、本気で戦いはしなかった。
 王の予想通り、北の国は勝利を収めた。当然、敗戦国である王の国は、過酷な処遇が待っているはずだ。だが北の国は、賠償金しか要求しなかった。過酷な要求をすると、王は南の国の保護国になる事を選ぶかもしれない。北の国はそれを恐れた。王の狙い通りに進んだ。
 だが王は、自分の国が北の国に飲み込まれる事は時間の問題である事を知っている。自分のやっている事は、先延ばしに過ぎない事をわかっている。だから、王は現実に背を向け、夢の世界に耽溺した。
 絵を描かせ、彫像を作らせ、音楽を奏でさせ、劇を演じさせた。神話や伝説を再現する仕掛けを設けてある城を築いた。王は、自分の幻想の為に金を湯水の様に使った。そのため王は、国民から見放されつつある。
 王の支配する小国は、売国奴が跋扈している。今また、王の下に売国奴が訪れていた。

 部屋の中は濃密な香りが満ちていた。部屋のいたる所に百合が飾られている。百合の中で、楽士が音楽を奏でていた。騎士の格好をした男が竪琴を奏で、戦乙女の格好をした女が歌を歌っている。王は寝椅子に横たわりながら、銀箔を張り巡らせた髑髏の杯で葡萄酒を飲み、音楽に耳を傾けていた。
 侍従が近寄り、王に耳打ちをした。王は何も反応しない。男が一人、許可を得ずに入ってきた。
「陛下、至急のお話がございます」
 男は、王の言葉を待たずにしゃべりだした。
「北国は、戦争を始めました。今、西に向かって進撃しています。わが国も、今すぐに援軍を送らねばなりません」
 王は、つまらなそうに杯あおった。
「南国と戦争をしたと思ったら、今度は西国と戦争か。北国も忙しいことだ」
 男は、苛立たしげに言い放った。
「のんきな事をおっしゃっている場合ではありませんぞ、陛下。わが国は、北国に負けたのです。援軍を送らねば、どのような責任を取らされるかわかりませぬぞ」
 王は、男を見向きもせずに音楽に耳を傾けて
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