薔薇迷宮の蛇

 黒馬に乗った男は、薔薇で出来た壁の前に止まった。明るい日差しが赤薔薇を照らしている。だが、薔薇の棘は人の立ち入る事を拒否している。ただ、一か所だけ入る事の出来る所がある。黒服をまとった男は、その入り口を見ていた。
 入口からは、薔薇の連なりを見る事が出来る。どこまで続いているか分からない赤薔薇の壁だ。その壁に挟まれた通路がある。その通路は、どこへ通じているのか分からない。
 男は馬から降り、馬を置いて歩き出した。そして薔薇迷宮の入口へと入っていく。黒服の男を、赤薔薇は冷ややかに迎える。男は足を止める事は無い。
 その男を、離れた所から見ていた者がいた。彼は、西にある村に住む農民だ。彼は、黒服の男の正気を疑った。魔物の手で造られた薔薇迷宮に入って出てきた者はいない。

 男は、薔薇の壁で出来た通路を歩いて行った。通路は、左右に繰り返し曲がっている。もしかしたら、同じ所を回り歩いているのかもしれない。入口は既に分からず、出口も分からない。どこを歩いているのかも分からない。だが男は、気に留める様子は無い。
 外側は赤薔薇で出来ていたが、中へと入っていくと様々な薔薇があった。白薔薇、黄薔薇、紫薔薇、そして伝説の青薔薇や魔界で咲く黒薔薇もある。様々な薔薇が迷宮を造っている。整然と配置された薔薇もあれば、一見すると自然に育ったような薔薇もある。
 男は、面白そうに薔薇を眺めながら歩いていた。足を止めると、黒革の手袋をはめた手で黒薔薇の茎をつまむ。花弁に顔を近付けて香りを楽しむ。そして黒薔薇と赤薔薇の連なりの中を歩き出す。
 薔薇の通路の先や薔薇の壁に、人ならざる者の姿が見える事があった。人体と蛇体の混ざり合った者が男を覗き見ている。人影もあるが、この迷宮に住む者は人ではなく魔物だ。男は、その者たちを軽く一瞥する。そうすると、人ならざる者たちは静かに引き下がる。
 男は、迷宮の奥へと歩き続けた。だが、本当に奥へ進んでいるのかは分からない。身長よりも高い薔薇の壁により、辺りを見回す事は出来ない。薔薇の壁には棘があり、昇る事は出来ない。そもそも男は、壁を上る気は無いようだ。奥へ進む気があるかさえ分からない。男は、薔薇を眺めながら歩いているだけだ。
 歩き続ける男の前に、開けた空間が現れた。そこは薔薇の壁で囲まれた空間だ。紫水晶で出来た噴水があり、その周りを青い光を放つ水晶で出来た彫像が囲んでいる。そして空の色に染まる水晶で出来た建屋がある。その建屋は、柱で囲まれているだけで壁は無い。建屋の中を見る事が出来る。
 建屋の中の寝椅子に、一人の女が体を横たえていた。

 女は、少しばかり体を起こしながら男の方を眺めていた。女の近くには誰もいない。男は、女の方へと歩いていく。
 近づいてみると、その女は類まれな美貌の持ち主である事が分かった。その繊細な造りの細面は、いかなる人間の名匠でも彫像とする事は出来ないだろう。古代神話における匠の神が、紫大理石と緑宝石、そして黄金を用いて作れば、その女を形作る事が出来るかもしれない。人ならざる者のみが許される美を備えた女だ。
 女は、美しさを除いても人ならざる者である事が分かる。女は、金糸の刺繍がなされた赤絹の服で胸と股をわずかに覆っているだけだ。彼女の体は、男には良く見えた。紫の肌を持ち、緑の髪を体の上に広げている。その髪の一部は生きている蛇だ。彼女の下半身は、緑の鱗が輝く蛇体だ。女は、黄金の瞳で男を見つめていた。
 男は、魔物女に近づいていく。腰に剣を携えているが、それを抜こうとはしない。
「ここで薔薇を見てもかまわないか」
 男は静かに話しかける。
「その前に名乗り合わぬか。私の名はルキア」
 蛇の魔物は、甘さのある低い声で問う。
「私の名はフィリップ」
 男は、どうでも良さそうに答える。フィリップと名乗った男は、ルキアと名乗った魔物女から視線を外す。そして薔薇迷宮を眺める。
「素晴らしい薔薇だ」
「ありがとう」
「ここは、あなたの迷宮なのか」
「そうだ」
 フィリップは魔物女を見つめた。蛇の魔物と言えばラミアやメデューサがいる。目前の魔物女の髪は蛇となっている部分がある。だとすれば、メデューサの可能性が高い。だが、この迷宮の主は、より巨大な存在かもしれない。
「あなたはエキドナなのか」
 フィリップの質問に対して、ルキアは微笑みながらうなずく。
 エキドナとは、蛇の魔物の中でも上位にいる存在だと言われる。一説によると、魔王の娘であるリリムに匹敵する力を持つ者さえもいるそうだ。エキドナは、その巨大な力から“魔物の母”とさえ言われている。
 だがフィリップは、女がエキドナだと分かっても動じた様子は無い。彼の関心は薔薇に向けられているようだ。
「お前は薔薇を見に来たのか」
「そうだ。ここは、伝説と言われている
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