水の精霊に包まれて

 施設を出た瞬間に、熱気が襲いかかってきた。私市直樹は、立ち止まって眉をしかめる。思わず職場である施設に戻りたくなった。だが、唇を噛みしめるとバス停に向かって歩き出す。
 私市は、額から流れ出した汗を手で拭った。デイパックの中にはタオルが2本あるが、どちらも汗で濡れそぼっている。この汗ではハンカチは意味がなく、持って来ていない。
 日が暮れて藍色の空になっているが、熱気は収まっていない。昼間の最高気温は35度、夜になっても30度ある。私市の目には、月も星も歪んでいるように見える。夜の暗がりが熱気を放っているようだ。
 汗を流す男は、犬のようにあえぎながら歩いていた。

 私市が働いている施設からバス停までは、歩いて5分だ。だが、酷暑の中を歩くとそれだけで汗が流れる。加えて私市は、汗をかきやすい体質だ。バス停に着いた時には、シャツもチノパンも汗で濡れていた。
 彼は、施設には自転車で通っていた。だが、自転車で通勤すると、片道30分こぐ必要がある。他の季節では問題はないが、酷暑の中ではつらい。施設の中でのきつい労働をする事も加わると、危険な状態となる。帰宅する途中に事故を起こしそうになった事があった。それでバスで通勤する事に切り替えたのだ。
 熱気の中をバスがやってきた。私市は、ふらつきそうになる体を鞭打ってバスに乗る。帰宅時のラッシュアワーであるために、バスは満員に近い。冷房をかけているが、人の熱気のために効きが悪い。私市は、吊革にしがみつくようにして乗る。
 バスから解放された時は、再び外の熱気が襲いかかってきた。まっすぐに家に帰ると、バス停からは5分で着く。だが、スーパーで買い物をしなくてはならないために、回り道をしなくてはならない。
 熱に翻弄されながら、私市は仕事の事を思い浮かべた。彼は、特別養護老人ホームで介護職として働いていた。特別養護老人ホームは、職員の仕事の担当が決まっている事が多い。彼は、特浴(機械浴)の入浴介助を担当している。身体的に普通の入浴介助が出来ない高齢者に対して、機械式の特殊な浴槽で入浴介助するのだ。
 私市は、今日は午前、午後共に4人ずつ入浴介助をした。1人の入浴介助に3、40分くらいかかる。風呂の熱気の中で、体の不自由な高齢者を入浴させるのだ。重労働である。Tシャツ、短パン姿で入浴介助するが、終わるころにはどちらも汗で濡れそぼっている。午前、午後に、ペットボトルのコーヒーを1リットルずつ飲んでいる。そのくらい飲まなければ耐えられない。
 私市は、午前か午後のどちらかに特浴の入浴介助をすればよかった。だが、今月から午前、午後の両方にやる事になった。人手不足のためだ。今年の3月に介護福祉の専門学校を卒業して働いていた介護福祉士が、先月に辞めた。真面目に働いていたが、自信を無くしてしまったらしい。同じ時期に、介護職員初任者研修を職業訓練で修了した人も辞めてしまった。年下の介護福祉士と喧嘩をしたからだ。
 2人の職員が辞めた負担は、私市にかかってきたのだ。主任は、あと1か月だけ我慢してくれ、その間に人員を増やすか、業務の見直しをする。そう言っていた。あてにならない言葉だ。第一、1か月も持つか分からない。
 私市は、特別養護老人ホームに就職した自分を呪った。だが、自動車を運転出来ないために、介護職として勤める事の出来る所は限られる。それでも辞める事を考えている。限界に近い。
 私市が仕事について呪っていると、スーパーに着いた。スーパーの中は冷房がかかっているのだが、あまり涼しくない。健康のために冷房を弱くしていると、入口の所に大きく張り紙をしていた。こんなスーパーで買い物をしたくはないが、私市の住処から一番近いスーパーはここだ。彼は、低く罵りながら買い物をする。
 レジに並ぶと、レジ係のわきに水の入ったペットボトルが見えた。彼女が水分補給をするためにあるのだろう。だが、水はあまり減っていない。飲む暇が無いのだろう。レジ係の額には汗が浮かんでいる。
 倒れて死ぬ人が出ないと、このスーパーはやり方を変えねえだろうな。私市は声に出さずに吐き捨てる。
 スーパーから出ると、やはり熱気が襲いかかってきた。私市は、もう罵る気力は無い。歩きながら、スーパーで買ったペットボトルの紅茶をラッパ飲みする。紅茶は見る見る減っていく。ペットボトルの蓋をしめると、彼の口からゲップが漏れる。
 やっと、私市と両親が住んでいるマンションに着いた。彼は、スーパーの袋を重たげに持ちながら入っていった。

 自宅のドアを開けた瞬間に、熱の塊がぶつかってきた。まだ、両親は帰っていないようだ。昼間に締め切った部屋の熱気がこもっていたのだ。このマンションは、家賃は少し安いが老朽化が進んでいる。夏熱くて冬に寒い。私市は、叩き付けるように電気を点け、
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