一人の男が、廃邸の前に立っていた。黄昏が石造りの館を照らしている。すでに廃棄されて久しい建物だが、イギリス式の堅牢な建て方により形を保っていた。だが、荒廃は薄暗さの中でも分かる。
男は、懐から蝶ネクタイを取り出す。二人だけの舞踏会に出席するためだ。夜会服を着たかったが、彼の財政状況が許さない。仕方なく、黒いスーツを着てきた。彼は、几帳面に蝶ネクタイを締めると、廃邸の中に足を踏み入れる。
風が雑草に吹き付け、微かな音を立てる。黒服姿の男は、気に留める事無く館の中に消えていった。
この辺りは、かつては外国人たちが暮らしていた。戦前から活動していた貿易港にある街であり、欧米から来た者たちが暮らしていたのだ。彼らは、祖国の建築様式に従った家を建てた。
だが、それはすでに昔の話だ。戦時中の空襲により、街が破壊された。戦後の復興は、同港の別の街で行われた。戦後に日本に来た外国人たちは、新しい街に住み着いた。そして寂れた街には、空襲を逃れた家々が無人のまま残っている。
この家々は、港湾沿いの施設から離れていたために空襲を逃れた。欧米の者が好む石造りの家であり、戦後も住もうと思えば住めた。だが、そのような者はいなかった。街おこしのために観光施設にする案が出た事もあったが、街の財政難により案は消えた。
高遠弘樹は、その捨てられた場所を訪れた。街は、港湾都市としては捨てられたが、都市としては残った。新たに出来た港湾都市で働く者たちの住宅街として機能している。ただ人々の住む場所は、廃墟のある場所からは離れている。高遠は、わざわざ来たのだ。
初めは気まぐれだった。洋式建築の廃墟の立ち並ぶ場所に興味を持ち、その中で散策したかっただけだ。猥雑な住宅地に辟易していた男にとって、この過去の遺物の立ち並ぶ場所は、精神を安定させる役割を果たすのだ。彼は、繰り返しこの場所を訪れた。
そして高遠は、一人の女と出会った。白い古風なドレスをまとった女は、廃邸の中にたたずんでいた。彼は、過去の亡霊である女に会いに来たのだ。
館は、鋭角的な造りをしていた。館を外から見れば、尖った屋根が目立つ事が分かる。館の中に入ると、室内の造りも鋭角的だと分かる。廊下に並ぶ窓、天井や壁の装飾、床のモザイク。館は、ゴシック様式を意識した造りであるビクトリア様式の建物だ。
高遠は、この館を建てた者を評価していた。大英帝国の栄光を体現した様式を愛し、この異国の地でも建てたのだ。もし植民地への悪意のこもったコロニアル様式の館だったら、高遠は興醒めしていただろう。
すでに日は沈んでおり、館の中は暗い。高遠は、小型の懐中電灯を持って来ていたが、付ける気は無い。月光が窓から差し込み、館の中を蒼く照らしていたからだ。懐中電灯を付ける事は無作法に思える。
高遠は、大広間の中に入った。かつては豪奢な空間だったのだろう。天井や壁、床の荘重な装飾がそれを物語る。この広間では夜会が開かれたのだろう。夜会服に身を包んだ人々が、蓄音機から流れる曲に合わせて踊っていたのだろう。もしかしたら楽団を呼び寄せて曲を奏でさせていたのかもしれない。
だが、夜会服を着て踊っていた人々は、過去に過ぎ去った者たちだ。ここにあるのは、虚ろな空間でしかない。滅びた広間を、蒼い月が窓から照らしている。黒服を着た男は、独り立ち続ける。
高遠は振り返った時、彼女がすでにいる事に気が付いた。月光に照らされた彼女は、彼に微笑みかける。男は、女に形式に従った挨拶を返す。
女は、高遠に歩み寄ってきた。足音を感じさせない歩き方だ。白いドレスをまとった彼女は、月光で蒼白く染まっている。彼女の髪はドレスにかかっている。髪の色が白金色か銀色なのか、高遠には分からない。彼女を、月光の下でしか見た事が無いのだ。彼女の髪は、常に蒼白く輝いている。
高遠は女の許可を得ると、彼女の手を取った。固く冷たい手だ。彼女の手には肉は無く、骨があるだけだ。彼女は、笑みを浮かべながら高遠を見上げる。左側の面は、令嬢にふさわしい秀麗さだ。右半面は、青白く輝く骨が見える。骨の窪みからは赤く光る瞳がのぞく。
黒服の男は、人ならざる女に微笑み返す。彼は、不思議な事に彼女が怖くない。厭世に蝕まれた男には、過去から来た女が美しく見える。すでに使われていない礼儀作法を用いて、彼らは語らう。
劇について語り、小説について論じる。女は、優雅な論客である事を現す。男は、彼女の卓見を拝聴する事が多い。そこで論じられる劇と小説は、十九世紀までのものだ。二十世紀以後のものは無い。
どこからともなく円舞曲が流れてきた。甘く軽やかで、どこか哀しげな曲だ。二人は広間の中央に立ち、蒼い光の中で踊る。高遠は、蒼は滅びの色だと聞いた事がある。どこで聞いたのか、彼には思い出せない
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