しびとに抱かれて魔に墜ちる

 ジパングの夜は、人が眠り魔性が蔓延る、冥府魔道の刻である。
 真っ当な人間であれば安らかな眠りの中で明日を待つ筈の時――独りの男が、正しく冥府へと踏み入ろうとしていた。

 それは、着流し姿の、眼鏡を掛けた男である。どこかほんわりとした雰囲気を纏った優男ではあるが、帯には剣呑な凶器が刺してあった。
 刀である。人を殺し魔を屠る、ジパングに於ける暴力と死の象徴。それを腰に指す男は、即ち戦士であった。
 しかし、男はジパングの貴種たる武士に非ず、その証として武士にのみ許される二本差しをしていない。
 武士ならざる、さりとて剣を持ち、それに生きるもの――人はそれを剣客と呼ぶ。
 若き剣客が踏み入ったのは、戦に焼かれた村である。
 珍しい場所ではない、ジパングは海の向こうと異なり人間の殺し合いが完全に日常と化している。
 決して絶える事なき戦の日々は、終わることなき犠牲者を生み出し続ける。この村も――男の故郷もその一つだ。

「なつかしいな」

 滅び去りし中に残る昔の面影に、男の顔が綻んだ。
 戦火に焼き尽くされた村の残骸であろうとも、目を閉じれば浮かぶのは嘗ての喧騒である。失われた事を悲しみはしても、帰る事で呼び起こされるのは温かい思い出だ。
 故郷の夜風を楽しみながら、男が向かったのは村の中でも一際大きな建物――廃墟になった、道場であった。
  持ち去る価値も無いと思われたか、表に掛かっていた看板もそのまま残っている。
『貉式萬妙術』――妖怪仕込みと謳った剣に柔は勿論の事、読み書き算盤まで彼はこの場所で仕込まれた。兄弟子姉弟子の話が与太でないのなら、後数年道場が続いていたら道場主――『先生』は伽も仕込んでくれた筈だ。
 男は、己にとって青春の思い出の結晶である道場に踏み入れ――顔を顰めた。

「……なるほど、覚悟はしていたが」

 手入れなぞ幾年も受けていない道場は、荒れに荒れていた。
 在りし日には数多くの道場生の血と汗が愛液が染み付いた床板の所々には穴が空き、壁に掛けるた名札や木剣、学習具などは一つ残らず消え去っている。
 なぜだか形部狸を祀った神神棚もとうの昔に落ちて砕け散り――道場の床を彩るごみと化していた。
 まこと、散々な有様である道場であるが、無事な場所が無いわけではない。
 男は比較的に無事な一角に端座の姿勢で座ると、静かに瞑目――あり得ない待ち人を待ち始めた。
 彼のねぐらに投げ入れられた文――『ただ二人、雌雄を』そう記された果たし状。その差出人として記された、死んだ女を。

 それは、昔の話である。この道場にて武の才を讃えられた二人の若き剣士がいた。
 共に才に溢れ、肉の素質に優れており、貴種の生まれこそはなかったが、剣で糧を得られる事は確実視され、武の一芸にて貴種への登用も有り得ると噂されていた。
 だが、才知への評価は若き二人に共に降り注いでいたが、将来への期待は片一方にしかされていなかっった。片一方は女であったが故に。
 ジパングに於いて、人の女は人ではなかった。才知云々に関わらず、女に生まれたと言うだけで多くの門を閉ざされる土地であった。特に、武の世界に於いては。
 どれほどの剣才があろうとも女と言うだけで道は閉ざされ、流派を起こせど女と言うだけで弟子が集まらぬ。免許皆伝へと至ろうとも、嫁入りの道具としか評価されぬ。
 ウィルマリナ・ノースクリムが決して生まれ得ぬ土地、それがジパングであると先生は悔しそうに語ったものだ。

 故にこそ、彼女はその運命を覆す機会を求めた。女であろうとも、誰の手にも無視できぬ手柄を上げられる場所、徹底して人手が不足し実力だけが求められる場所――戦場へと。
 戦火に塗れたジパングは、立身出世の機にも溢れている。当たり前の、生まれながらの真っ当を覆す機会はいくらかあった。
 彼と彼女にとって、その機会は向こうから訪れた。生まれ故郷が戦火に巻き込まれたのだ。
 先生の教えも聞かずに、彼女はその戦火に飛び込む事を選んだ。道場の皆には故郷を守るためと嘯いていたが、彼にだけは剣で天下を取ると語っていた。

『おれはよ、兜首の一つでも上げてよ。誰の目にも認められる剣客になるんだ。そうして――』

 彼はその時の笑顔を未だに忘れられない。屈託のない本当に綺麗な笑顔であったし、それが最後に見た笑顔になったからだ。
 合戦の終わりは、彼にとっての煉獄の始まりだった。
 彼女の属した陣営は負け、彼女は村に帰らなかった。そして、当然のように勝者達は敵に与した誅罰として村を焼いた。
 勝利の美酒に狂った狼藉者共が村を訪れる前に、先生の導くままに多くの人間は村から逃げたが、数多くの顔見知り達は村と先生の説得も虚しく村と運命を共にした。彼は捨てた側だ。逃げ出したといってもいいだろう。
 彼女がいなく
[3]次へ
ページ移動[1 2 3 4 5 6..10]
[7]TOP
[0]投票 [*]感想
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33