Introduce

降りた夜の帳。
荒ぶ生温い風。
低く唸る木々。


僕は夜の闇を走っている。かれこれ何時間逃げているのだろう。平野を越え、この山岳地帯に逃げ込んだものの、それでもまだ奴らが追ってくる。草むらを掻き分ける音が、どれだけ走っても僕一人のものにならない。がさがさがさがさ。そのくせぜいぜい息を荒げて走っているのは僕だけ。そこに時折混じる怒号。追え、撃て、捕らえろ、逃がすな。山に茂る木々の合間を縫って走る僕へ、次々と矢が放たれている。それらは今のところは木の幹を捉えてくれているけれど、いつ僕に牙を剥けるか分からない。
僕はいつ終わるとも分からない逃走劇に、いい加減うんざりし始めていた。ここで足を止めれば、こんな疲れるだけの繁劇には簡単に幕を下ろせる。とは言え、僕はまだ僕の命という喜劇に幕を下ろしたくはない。自ら死を選ぶという境地に至るほど、僕はまだ人生というものを達観していない。
生き延びてやる。僕が疲れているなら、連中だってきっと疲れているはずだ。連中の数が多いのは、一人一人の実力が乏しいから。だから、寄せ集めて大きい力にする。妥当な考え方だ。だが、ただ寄せ集めただけでは、強くはならない。一人一人の結束がしっかりしていなければ、少し小突かれただけでも、簡単に崩れ落ちてしまう。
僕はそれを知っているんだ。他者との結び付きを知らない勇者なんて居るものか。
追手の全てが僕に追い付けているわけではない。これでも、逃げ始めた頃に比べればマシになった方だ。追手は確実に減ってきているんだ。このまま今夜を乗り切れば、国境はもうすぐそこだ。国境越えを果たせば、奴らも簡単には僕の場所を特定できなくなるだろう。こんな事で捕まってたまるか。
そら、一人、また一人。その辺の兵士が世界を救う勇者に敵うもんか。矢だって、ここまでただの一度も……
僕は風を切る音を聞いて身をよじった。右頬を鏃が掠める。危なかった。勇者にあるまじき慢心だった。もう少し反応が遅かったら、僕は何が起こったのか理解する間も無く倒れていただろう。全く、驚かせてくれる。

次の瞬間、僕の身体は宙を舞っていた。身をよじって、左足を踏み込んだところ。そこに地面はなかった。そこは急勾配の坂だった。

僕の身体は、バランスを崩して。
倒れ込んで。
      勢いがついて。
回って。
    回って。
        回って。
ぶつかって。
回って
   廻って
周って
   まわって
回って。
意識が、遠退いていく。
何を考える余裕も無い。

僕はただ、限り無くワイドに拡がる視界の中、ありとあらゆる方向からくる衝撃を感じているだけだった。回転しながら、全身を強かに打ち付けている。それくらいしか思う事は無かった。
口の中が血の味でいっぱいになる頃になると、僕はもう何も見えなくなっていて、やがて、同じように、考える事も真っ暗になっていった。

勇者にあるまじき油断だった。






光。
朝日。
僕に差している。
水の音。川の流れ。
遠くに聞こえる。
それだけ?いや違う。
呼んでいる。誰かの声。誰?
誰を呼んでいる?僕?
揺れている。僕の身体が。
不自然に。ゆらゆら。
誰かの手で。誰の手?

「………てよ!ねぇ、ねぇったら!!」

声だ。女の子。まだ幼い声が僕を呼んでいる。小さな手が僕の身体を揺すっている。
誰だ?どうすれば判る?
……目だ。目を開けるんだ。

「………?」

僕の目蓋が開いた。光が僕の目に差し込んでくる。明るい。朝日を背に誰かが映っている。輪郭が見える。やっぱり女の子だ。僕を見ている。心配そうに覗き込んでいる。

「気が付いたのね!よかったぁ!」

女の子は目を覚ました僕を見て喜んでいる。とりあえずは一安心と表情を綻ばせている。
どういうことだ?この子は誰だ?僕は何をしていた?
意識が戻ってきて、少しずつ頭の中がはっきりしてきた。一体僕がどうなっているのか思考を整理したいところだが、どうもそうはいかないらしい。口の中に広がる鉄の味。これは……血だ。

「うっぐ…うぅ……」

僕は身体中を襲ってくる痛みに喘いだ。それはどうしてこんな痛い目に遭っているのかを考える事も出来ないくらいに強烈で、僕は歯を食い縛って身じろぎをした。

「大丈夫?どこか痛いの?」

どこかとかいう話ではない。全部だ。

「手…当、て……」
「そ、そうだよね。治してあげなきゃ。待ってて!」

痛い。痛い。痛みを治さなければ。自分では出来ない。助けて。息も絶え絶え、といった感じだったが、どうやら通じてくれたらしい。女の子は立ち上がると、向こうへ走っていった。僕はあの女の子を待つ間、この痛みに耐え続けなければならないわけか。どうやったって和らげられるものではない。ただ、あの子が戻ってくるのを、痛みの中、ひたすらに待つ。

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