出る時には、今日も頑張って、と言うような普通のキスをされただけだった。この日に不可欠なそれを渡されたわけじゃない。だから家に帰ってからのお楽しみなのだろう、と思っていた。魔物というのを甘く見すぎていたと痛感した。
何の起伏も無い呆けた日常に突如現れた彼女。ゲイザーという単眼の魔物。大きな赤い一つ目に、背から生える眼の付いた無数の触手。血の気の失せた灰色の肌。手足に胸と局部を黒いスライムのようなもので覆っているだけの、小柄だが異様で刺激的な背格好。どうにもそんな異形に惹かれてしまったらしく、彼女と関係を持つ程度の仲になって、同棲を始めて最初のバレンタイン。
戸を開けたら、いつも通りに彼女が迎えてくれる。きっと、この日の特別な贈り物を添えて。そう考えていた。
「……おかえり。ハッピー、バレンタイン」
帰ると開口一番、少し躊躇いがちな彼女が腕を広げて迎える。彼女にとっては、少し歯の浮く台詞だったのだろう。その両手に贈り物が握られていると考えていたが故に、絶句せざるを得ない。てっきり眼を除けば白黒な彼女が待ち構えている、と安易ながらに思っていたのだ。
自分の目を疑った。色彩の認識能力が急におかしくなったのか。
「な、何か言えよ! あ、アタシがヘンみたいだろ!」
言葉を失って立ち尽くす俺に彼女が触手を揺らして抗議する。未だ事態を上手く飲み込めない。
「いや、お前……どうしたんだよ、その体?」
「だからぁ、アタシがチョコだって……こと、だよ……」
尻すぼみになりながらも、彼女の言っていることは何も間違いではない。むしろ戸惑う俺には丁度理解するに易い説明だろう。言葉の通りだ。彼女は今、チョコレートだ。板状になったのではない。触手だの、髪だの……そういう彼女の体の黒い部分だけ、甘い甘い、ミルクチョコレートの色に変わってしまっている。いつもの俺なら、もっと皮肉の利いた言葉の一つでも返せたのだろうけど。
「あ、あぁ……えっと……じゃ、食べれば、いいの、か……?」
「お、おう……」
どうにもちぐはぐなやりとり。けれど彼女は右手を差し出す。彼女の腕を覆う、とろりとした茶色の液状のもの。鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、確かに甘ったるいカカオの香り。心の安らぐ、食欲をそそられる匂い。それは腕。いとしい人の手指。けれど口に含むことへの抵抗感は無かった。
ぱくり。人差し指と中指をまとめて口に含む。鼻腔に広がる芳醇で深みのある香り。舌に乗った指から甘みと苦みが同時に伝わる。
「んっ……」
「……甘い」
「そりゃそうだ。チョコなんだから」
「一体どうやって」
「ちょっと、薬を使ってな」
「薬?」
聞き返すと、彼女がリビングへ案内する。導かれるままに付いて行くと、確かにリビングのテーブルには見た事のないものが置かれている。少量の錠剤が入った「Sweet Eatee」というラベルの貼られた小瓶だ。甘い被捕食者……間違いではないが。彼女が瓶を手に取って解説を始める。
「これを食べるとしばらく体が甘くなるんだ。どう甘くなるかは服用したヤツの意志である程度自由にできるらしい」
「今日服用する女性は皆チョコ味になりたがるってわけか」
「それから、部位によって味に差異が出てくるらしい。この辺は飲んでからのお楽しみってヤツだな」
「部位によって……ね」
解説を聞いて悪い事を考えた俺は、全身スイーツと化した彼女を迷い箸をするようにねめつける。手は、見た目通りのミルクチョコだった。とすると、同じような色をした足や髪、触手も味は変わらないと思われる。残るは……
「な、なんだよ急に、じろじろ見て……んむ!?」
彼女が訝しがるが早いか、抱き寄せて唇を強引に奪い、舌を差し込む。彼女の手から瓶が抜け落ちて、がらんと大きな音を立てて床を転がっていく。
突然の事で彼女の口の動きは硬いが、舌を愛でる様に動かしているとすぐに動きは弛んだ。予想通り、ここはミルクチョコじゃない。もっともっと甘ったるい、濃厚で優しい味わいのホワイトチョコ。歯も舌も上顎も下顎も、どこを舐ってもとろける甘さ。唾液まで甘い。思わずずっと味わっていたくなる。口内から滲み出てくるのをどんどん嚥下する。
「ん、ちゅ、ふぅんん……ちょ、ちょっと、待って……」
息継ぎもせずに唇同士を密着させて貪っていると、息の切れた彼女がストップをかける。突き放された感じがして寂しいが、離れた彼女の息は苦しそうに上がっている。蕩けた顔で座り込んでいるところを見るに立っていられなくなったのだろう。行為に独りよがりな思いは厳禁だ。とはいえ、彼女が口付けだけでこうも敏感な反応を示したことはない。
「悪い、つい……ってお前、キスだけでそんなになったっけ……?」
「あれは、キスとか、甘噛みとか、口ですることに体が敏感になる効果も……あるんだ
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