「……?」
「やっと起きた」
日の昇り始める頃、彼女の目が覚めた。彼女が起き上がれば、腐りかけのベッドが大きな音を立てて軋む。
「寝てて」
僕は彼女を促して、もう一度横たわらせた。相変わらず彼女は表情の変化に乏しいが、恐らく、この状況を完全には理解していない。
「僕がお前を助けた。お前、池の傍で倒れてたんだ」
僕が説明すると、彼女はその意味を反芻する様に沈黙していた。
「……ありがとう」
沈黙が破られたその時、僕は初めて彼女の声を聞いた。彼女の、僕が聞く最初の声。感謝の言葉。小さいけれど、可憐で透き通っていた。僕はこの日、初めて依頼を失敗した。
僕は、彼女を助ける。短剣を収めて、彼女の首に手を触れた。脈拍は安定していた。うつ伏せの状態では、背中に髪がかかっていて様子がよく分からない。うつ伏せの身体をひっくり返して、僕はまた息を呑んだ。
尻尾こそ無事だったが、体中が傷だらけで、露出している腕や脚は勿論、体を覆っている鱗でさえもズタズタ。極めつけに、彼女の耳にある一対の鰭は両方とも切り取られてしまっていた。魔物とは言え、この矮躯をこうもしてしまえるものなのか。筋違いながら、僕はそう胸が痛んだ。毎日誰かを殺している僕にはそんな傷口くらい見飽きていたのに、彼女がそうなっているというだけで見るに堪えなかった。
早く、手当てをしなければ。僕は焦燥の赴くままに彼女を抱き上げて、家のベッドに運び込んだ。家中をひっくり返しても、見つかったのは黄ばんだ包帯に、使えるのかどうか分からない塗り薬。それと、ガーゼ。幸い、これは汚れが少なかった。あるものでどうにかするしかない。
池から桶に水を汲んで、なるべく清潔なタオルに水を含ませ、傷口を拭う。タオルが汚れてきたら濯いで、また拭う。傷口の一つ一つを、丁寧に。出来る限り傷が痛まないように。処置をしている間中、僕の鼻を突く血の臭い。嗅ぎ慣れているはずのそれが、僕にはとても不快だった。手早く、しかし焦らず。他人にこういう処置をするのは難しい。力加減はこれでいいのだろうか。意識を失っているとはいえ、彼女は痛く感じていないだろうか。血を拭う度に露わになる傷口が生々しい。桶の中の水が見る見るうちに赤くなる。水を汲み直して、もう一度。手足は全て終わった。鱗の内側も、やらなければ。
僕は鱗の肩紐の部分を外し、ずり下げる。柔肌に血が紅く滲んで、汚れている。腹にまで、こんなに傷だらけで。拭っては濯ぎ、拭っては濯ぎ。一つずつ、丹念に。臀部も鼠蹊部も、傷付いたところは全て。背中も忘れずに、優しく。鱗に覆われていたからか、手足よりは傷が浅かった。最後、耳の部分。血は止まっているけれど、傷口を見るのが怖い。殺し屋が傷を見るのを怖がるなんて、可笑しな話だというのに。僕は意を決して、彼女の長い髪を掻き上げた。髪に隠れた小さな耳が覗き、そのすぐ後ろで赤黒い傷が口を開けていた。
あろうことか、口の中が酸っぱくなる。それに耐えながら、僕は少しずつ傷口を拭っていった。鰭を無くした彼女は、これからどうなるのだろう。鰭がどんな役割を担っているのかは知らないが、鰭が無くなったということは、彼女の生活において何らかの支障が生じることになるだろう。その時、僕には何が出来るのだろうか。
傷口の汚れを拭い終えたら、次は傷薬の塗布。薬を手に取ると、薬品特有のツンとした臭いが鼻を突いた。彼女の腕を取り、手の平全体を使う様にして、ゆっくりと患部に塗り込んでいく。腕が終わったら、脚を。続いて胴、最後に背中。薬は傷に沁みている。意識が無いから反応も無いけれど、何だか申し訳なく感じた。
僕の手に感じる彼女の肌は傷付いてしまっていたけれど、絹の様に白くて、柔っこい。それでいて常に泳いでいるからか、余分な肉は無くて引き締まっていた。僕とは似ているようで全然違う。確かにすっきりした体型ではあるけれど、僕より小さくて、細い。僕が力を込めれば、この腕はいとも簡単に折れてしまうとすら思えた。こんな体で、本当に人を殺せるのだろうか。群青の手は無骨さをも孕んでいるが、とても人を殺められるものとは思えなかった。彼女は人を殺さない魔物なのか。それは魔物と言えるのか。だが……現に僕は彼女を助けてしまっていた。ある種の慈しみすらも携えて彼女を介抱していた。こんな事、師匠からは教えられていないのに。教えてもらったのは必要最低限、受けた傷の処置だけ。それを他人に僕がしているだなんて……。
薬を塗り終えたら、最後は包帯。特に傷がひどい腕と脚を中心に、傷口をガーゼで保護し、包帯を巻いて固定する。途中で緩まないように、だが締めつけないように。巻いたら留め金を挟めば、処置は終了となる。腕と脚、それから頭に巻いたところで包帯は無くなった。僕に出来る処置はこれだけだった。傷の全
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