前編 お前を殺す

 らしい友人はと言えばそう、月くらいのものだった。それくらい、僕は夜に生きていた。僕はそういう生き方をしなくてはならない環境に生まれた。だから、その生き方にも何の疑問も持っていなかった。
 僕は、僕以外の誰にも心を開かなかった。そんな必要も、機会も無い生き方をしてきた。これまでも、これからも、ずっとこうやって生きていく。そう思っていた。





 深まった夜に眠る街。街灯がスモッグを通して、薄ぼんやりとした光を放っている。そんな薄暗い街でも一際暗い路地裏。そこで、物陰を縫う様にして走る黒いものが僕だ。煌びやかな礼装に身を包んだ、中年の男。僕はそれを追っていた。彼はこの街の要人らしい。だから、夜道を歩く際には護衛も付けていることだろう。それくらいは何ともない。今日は月の出てない曇った夜。絶好の仕事日和。こなれた僕にはそれだけの条件が整っていれば十分すぎる。
 開けた通りに出ると、探している後ろ姿が見えた。あいつとその護衛以外に、他の人影は無い。僕は姿勢を低くし、音も立てずに街路の石畳を蹴った。無防備な後ろ姿がどんどん大きくなる。僕は走りながら、息を止めて腰の短剣を抜いた。護衛は前と後ろに一人ずつ付いているが、僕にはまだ気付いていないようだ。僕は更に深夜の煙霧を切って走った。眼前に見える人間の輪郭が最も大きくなる時、僕は右手の短剣を、礼装から覗いた首元目掛けて振り抜く。
 霧の街に一つの断末魔が、また響いた。僕にとっては、ただそれだけの事だった。



 依頼主から報酬を受け取った僕は、街の離れにある森へ足を踏み入れた。開拓もされていない道無き林道も、僕にとっては庭の様なものだ。元々夜目は利くし、そうでなくても、目を閉じていてもこの森を歩くぐらいはわけがない。耳だけでも判る。死んだ様な鎮静を湛える夜の森でも、森は確かに息づいている。音を殺せば遠く、葉擦れや梟の声。微か、香る果実や水の匂い。それらを頼りに進むことも、僕には依頼を果たすよりも簡単だ。この先に、僕のアジトがある。尤も、アジトと言うには少々、矮小が過ぎるかもしれないが。
 森を歩き始めていつも通りの時間が経ち、開けた場所に出る。僕は徐に顔を上げて空を見た。本来開放感に溢れているはずの空は一面の暗雲に覆われていた。黒いペンキでもぶちまけた様なそれを見て僕は一人、大きく舌打ちをした。顔を下せば、辛うじて雨風を凌ぐしか能の無いあばら家と、用水として使うには困らない程度の池が、いつもの様に佇んでいた。戸も付いていない玄関口を抜けて、その辺に金貨の入った袋を放り投げる。袋が偶々そこに居た蜘蛛を下敷きにすると、封が解けて数枚の金貨が床に散乱した。ちゃりちゃりと弾ける音は僕の耳をすり抜ける。僕は家の奥まったところ……この家で唯一、雨漏りの無い場所に置いたベッドに身を横たえた。腐りかけた木製のベッドは派手な音を立てて軋む。劈く様な音に身を包まれながら、僕は黴臭いシーツに鼻を埋めた。意識が遠巻くまで、大した時間は掛からなかった。



 僕はふと眠りから離れた。そうとなれば、僕が目を覚ます要因が何かあったに違いない。その正体は光だった。見れば、硝子の無い窓枠から光が差し込んでいた。光は、床に転がっている金貨を明るく照らしている。爛々とした金貨は自分に向けられた光を僕の目に押し付けていた。そういう事だった。……どうしてだろう。
 この光は、さっきまでは無かった。けれども、朝と言うには、周りは余りに暗すぎる。今はまだ夜なのだろうが、しかし、光はそこにある。僕は導かれるようにして家を出た。
 すると、僕が焦がれた光が僕を包んだ。黒雲が去った夜空は、清々と澄み渡っていた。空に、大きな丸い穴がぽっかりと開いている。穴から零れた金の光が、夜色をより一層鮮やかにしていた。
 満月だ。今日はもう出てきてくれないかと思っていたが、嬉しい誤算だった。僕は弾む足取りで池の縁に吸い込まれる様に座った。風は僅かも無く、細波すら無い水面はさながら鏡の様だった。
 その鏡に映るのは夜空。そして目も眩む望月。座ったまま、僕はぼんやりとそれを見ていた。時の止まった様な静謐の中で月を見るこの時、僕は唯一心が安らいだ。中でも、満月の日は最高だ。晴れた日に欠かした事は無い。月が降らす柔らかな光が、気休めながらも、僕の心の膿を洗い流してくれている様な感じがする。月が空の向こうへ帰らない限り、僕はいつまででも見ていられるくらいだ。だから、今日も僕は月が帰ってしまうまで、ずっとこうしているつもりだった。
 月は空と池の両方とで、依然その輝きを放ち続けている。池に映った月は、手を伸ばせば届くと思える程の実体感でそこに在った。けれども、僕は手を伸ばさない。月はそこに在る方がずっと綺麗だと分かっているから。僕はずっと、月と見つめ合っている
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