指笛

黄昏時の渓流。
木々の合間を黄金の射光と吹き渡る風が満たしている。
切り立った、大きく高い石の上。そこに僕は立っている。
今はもう朽ちた約束を果たしに。そう、あの約束を。






ぼくは元々山の麓にある集落に住んでいた。他の子がいないというわけではなかったが、ぼくは周りと比べると少しばかり人見知りな性質で、周りとは馴染んでいなかった。
小さい頃は集落の周りだけだったが、年を重ねてくると、それに従って行動範囲も広がった。
ぼくは人見知りではあるものの、好奇心は強い方で、10歳くらいの頃には、足を伸ばさなければならないが、よくこの渓流に来たのだ。
渓流には開けた場所があって、お昼を食べて遊ぶ時間になると、そこで形の良い石を拾ったり、度胸試しに飛び込みをしたりして、夕日の見えるまで過ごすのが常だった。
この渓流には他に来る子も無く、丁度その頃は夏だったので、水の流れるそこはぼくにとって格好の避暑地だったのだ。
そんなある日、ぼくはうっかり履き物を川に落としてしまった。決して遅くない水の流れにぼくは急いで追い付こうとしたが、石ころの上を走るぼくより、水の上を走る履き物の方が僅かに速かった。
いよいよ追い付けないかと諦めかけたその時、流れていた履き物が、ふっと水に沈んだ。思わず立ち止まって、履き物があった辺りに目を凝らす。
何も変わった様子は無い。ぼくは恐る恐る、そこへ近づいてみた。
深さは腰までなので、足を滑らせたりしなければ心配は無い。けれど、履き物が消えたところまで来ても、履き物は見つからなかった。水面に顔を付けて覗いてみても、それらしき影は無い。
一体どこへ……そう思って顔を上げた時だった。背後から、ばしゃん、と水の跳ねる音が聞こえた。
反射的に振り向くけれど、誰もいない。その代わりに、ぼくが落としたはずの履き物が、ちょこんと砂利の上に置いてあった。
不思議に思いながらも、それを履き直して、辺りを見回す。その時だった。

「お礼も言ってくれないの?」
「えっ……!?」

さっきまでぼくがいたはずの所から声がした。
思わず振り向いても、そこに人影なんて無かった。この川に、ぼくの知らない『何か』がいる。勿論そう考えた。けれど、それが何なのかは、僕には分からない。
でも、きっと幽霊ではないと思った。今は夜じゃない、日光の差し込む昼下がりだ。だから、分からない。分からないから、訊いた。

「誰…?」

声は自分でも分かるほど小さくて、川のせせらぎに掻き消されてしまいそうだった。それでも、その『何か』には聞こえていたらしい。また、水が跳ねた。
丁度、切り立った大岩の影になって見えないところから。
水音がした先は、岩の影になっていて見えない。それでもぼくは、その岩に穴が開きそうなくらいに音がした方向を見つめていた。
回り込んで見れば済むことなのにそうしなかったのは、ぼくが『何か』に対して警戒していたからに他ならない。それでもぼくは勇気を振り絞って足を踏み出した。
お化けなんかじゃない。きっと、先にここに来て泳いでいた親切な誰かだ。大岩を一歩ずつ、忍び足で回り込みながら、ぼくはそんなことを考えていた。
あと一歩踏み出せば、音の元が見える。ぼくは岩の影に身を隠しながら、そっとそこを覗いた。
……大岩が淀みを作っているだけで、人らしい人なんていなかった。人らしくない人なら、ぼくを見ていた。
薄緑の肌で、背中に甲羅。頭の皿に、手の水かき。おかっぱの、大体ぼくと同じくらいの女の子。ぼくたちはお互いに釘づけになった。

「誰…?」

もう一度訊いた。こうでもしなければ、ぼくは何とも言えないばつの悪さに叫んで逃げてしまいそうだった。

「わたし?わたしはヒスイ。きみは?」

特に言い淀む様子も無くすいすいと答えるどころか、こちらに訊き返してきた。
たじろぎながらも、ぼくは何とか言葉を振り絞った。

「ぼく……ぼくは、ショウ」
「きみ、いつもここに来てるよね」
「えっ……見てたの?」
「うん。水の中から」

ぼくはいつも一人で遊んでいるという自覚があった。
それはそうだ、一緒に遊べる様な子はいなかったのだから。けれども、この子……ヒスイと答えた子は、ぼくを見ていたらしい。
但しそれは、木陰や岩陰などではなく、水の中から。ぼくはヒスイの変わった風貌からも、こう訊かずにはいられなかった。

「きみは……」
「ヒスイでいいよ」
「え?あ……えっと、ヒスイって………人間じゃあ、ないよね」
「うん。わたし、河童なの」
「河童……あの、キュウリが好きな?」
「そう。相撲も好きだよ」

河童がいるということは、ぼくもお爺ちゃんやお婆ちゃんの話から聞いた事があった。でも、こんな近い所にも出てくるとは予想だにしていなかった。
ぼくはそもそもどうしてヒスイを見つけようとし
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