去年の冬。
一人の女性が、八十三年の生涯に幕を下ろした。
人間として生まれ、医師として働き、旅人として歩む。
地位や名誉、金銭や快楽といった事柄には頓着せず、ただひたすらに、純粋に、この世界の広さと、そこに暮らす全ての命を愛し続ける。
繰り返し訪れる出会いと別れに心を震わせ、巡り来る季節を見つめ、誰に対しても分け隔てのない笑顔を送る。
彼女は、そんな人物だった。
彼女には、色々なあだ名があった。
旅人先生。
女風来坊。
天衣無縫の人魔医。
医者の鏡。
魔物の手先。
……その他にも、たくさん。
親魔物国家の人々は、彼女の生き方を一つの理想と考えた。
中立国家の人々は、彼女の自由な歩みに驚きと憧れを抱いた。
反魔物国家の人々は、彼女の垣根を作らぬ言動に眉をひそめた。
同じ物事に対しても、立場や状況、文化や思想が異なれば、それぞれの捉え方は大きく異なってしまう。
だから、彼女には色々なあだ名があった。
あだ名の数だけ、彼女はこの世界を歩き、色々な事を仕出かしたとも言えるだろう。
彼女は、どんな人間だったのだろう。
彼女は、どんな女性だったのだろう。
彼女を知る魔物さんに、お願いです。
彼女との思い出を、少し教えてください。
《 彼女の幼年期を知る、ヴァンパイアの話 》
……そうか。
あの子が、逝ってしまったのか。
最後にあの子と会ったのは、ニ年前の秋だった。
昔と同じように何の遠慮もなくこの館の扉を開けて、ニッコリと笑っていたよ。
ただ、持ち物とセリフは変わっていたかな。
昔はお気に入りの人形を持って、「お姉ちゃん、遊ぼう!」と。
歳を取ってからは、お気に入りの葡萄酒の瓶を持って、「さぁ、一杯やろうよ」と。
前歯のない擦り傷だらけのお転婆娘が、皺だらけのお婆さんになってしまうのだから、まったく 人間の一生とは儚いものだ。
けれど、あの子の笑顔だけは、時が流れても少しの変化もなかった。
いつも楽しそうで、あたたかい顔をしていて。
裏表など一切ない、素直な心の全てが綺麗に表現されているような、そんな笑顔だったよ。
あの子との出会いは……まぁ、それなりに衝撃的なものだったな。
とにかく、少し想像してみて欲しい。
五歳、人間、女の子。
乱雑な三つ編みと、日焼けした顔。
着ている服は、あちこちに泥や葉っぱがくっついた、安っぽいワンピース。
左手には、お気に入りの人形。右手には、母親から渡されたおやつ入りの小さなバスケット。
そんな女の子が“冒険”と称して鬱蒼とした森に立ち入り、怖いもの知らずにズンズンと突き進んだ挙句、薄気味の悪い古びた館に辿り着く。
だが、その子の顔に恐怖や戸惑いはなく、瞳は溢れ出る好奇心で爛々と輝いている。
ワクワク弾む心と共に、女の子は重い扉を開け、それまでと同じように館の中をズンズンと突き進む。
目に入ったドアは、とにかく全部開けてみる。
興味を抱いた物は、とりあえず全部触ってみる。
中にはそれなり以上に危険な部屋や物もあったのだが、何かの加護が悪運か、特にこれといった問題は起こらない。
そして女の子は館の地下に突き当たり、格別重い扉を開く。
怪しげに揺れる燈台の光。
冷たく無機質な石の壁。
敷き詰められた、血のように赤い絨毯。
そんな部屋の中央に置かれた、夜の闇よりも黒い棺桶。
明らかに、この部屋はおかしい。
明らかに、この棺桶の中には何かがいる。
明らかに、その何かは危険な存在だと、人智を超えた怪物だと、己の本能が告げている。
けれども、やはり、女の子の顔に恐怖や戸惑いはない。
それどころか、ドキドキとワクワクは最高潮に達し、もう楽しくて楽しくて仕方がなくなっている。
女の子はフンと鼻息も荒くその棺桶に歩み寄り、宝箱を開けるようにパカリと蓋をあける。
そうして、棺桶の中身をしげしげと見つめ、確認した女の子は、こう言った。
「お姉ちゃん、お寝坊さんねぇ。もうお昼過ぎだよ? ママが焼いたクッキー食べる?」
……いや、嘘や冗談ではない。
棺桶の中で眠っていた私に向かって、あの子はそう言ったんだ。
私も随分と長い間生きて来たが、『お寝坊さん』呼ばわりされた挙句、クッキーを勧められたのは初めての経験だったよ。
あと、人間の所業に対して、「……えぇ〜?」という戸惑いの言葉を発したのも、初めてのことだったな。
念のために断っておくが、普段はいかなる状態にあろうとも、この私が館への侵入者に気付かないなどという事はない。絶対に、ない。
頭の悪い反魔物国家やヴァンパイアハンター用の罠と結界も、きちんと整備してある。
そう、きちんと整備も準
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