無言で便箋を折りたたみ、封筒へ戻す。
けれど、指が震えて上手くいかない。
一度、二度、三度と失敗して、ようやく成功する。
こうなるだろう、という予感はあった。
だから、涙は出ないし、怒りの気持ちも湧いて来ない。
ただただ「あぁ、やっぱり」という思いと、胸の真ん中に大きな穴が開いたような、何とも言えない喪失感を抱いていた。
端的に言うと、僕は失恋をした。
昼過ぎに届いた手紙には、異国へ留学した恋人からの別れの言葉が綴られていた。
四年間の留学の後、この街へ帰ってくるはずだった『彼女』は、そのまま向こうに根を下ろし、夢に向かって生きる覚悟を決めたようだ。手紙にはその思いと僕への謝罪の言葉が並び、最後はこれからの健康と幸せを祈る言葉で締めくくられていた。
「……ちょっと、ズル休みをさせてもらおうかな」
橙色をした夕暮れの光が差し込んで来る窓を見つめながら、僕はそう呟いた。
そして紙とペンを取り出し、ぼんやりとした思考の中で黙々とこう書いた。
『まことに勝手ながら、三日ほどお休みをいただきます 〜 クララ・ベーカリー 店主』
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何だか、良い匂いがする。
食欲を刺激される、自分の大好物の匂い。
「ん……?」
その匂いに引っ張られるように眠りから覚めた僕は、のっそりと自室のベットを抜け出した。夕暮れ時の光は既に無く、部屋の中は夜の色と落ち着きに満たされている。
とはいえ、勝手知ったる我が家の中だ。ランプを点けずとも、何の問題もなく台所へ進む事が出来る。
「あぁ……ライラか」
「ん、起こしてしまったか? すまなかったな」
台所には、静かに鍋をかき回している一人のケンタウロスがいた。
無駄なく均整の取れた美しい栗色の馬体は、今日も芸術品のように美しい。
そして、清潔感ある白いシャツに包まれた人としての肉体もまた、美女の気品を漂わせている。
「……どうしたの?」
「それはこっちの台詞だ。体の具合は、大丈夫なのか?」
馬体と同じ艶のある栗色の長い髪を揺らしながら、少し不機嫌そうな表情でライラが言う。
その言葉の意味が一瞬理解出来ず、首をかしげかけて……「あ」と思い当たる。
「あぁ、うん。ごめん。大丈夫大丈夫」
「本当か? 医者には行ったのか? 三日も休むつもりなんだろう?」
「いや、行ってないけど、大丈夫だよ」
苦笑いしながら、ライラの言葉をかわす。
どうやら彼女は、張り紙の内容と僕が眠っていたという事実を合わせて、『体調不良による臨時休業だ』という結論に至ったらしい。
そう思っているのなら、彼女に余計な心配をかけないためにもこのままで……
「…………」
「……ライラ?」
そう考えていた僕の顔を、ライラがじっと見つめて来る。
シャープな輪郭に、大きな瞳。形の良い鼻と、花びらの様に可憐な唇。今も昔も、彼女は美人だ。
「嘘だな」
「え?」
「お前は嘘をつくと、右の眉が下がる。ものすごく申し訳なさそうな顔になるんだ。前にも言っただろう?」
「あぁ、うん……」
そう言えば、そんな指摘を以前からしばしば受けていたような気がする。
「本気でライラに嘘をつかなきゃいけないような場面なんて来ないよ」と言って、大して気にしていなかったのが仇になったか。
鍋を火から下ろしながら、ライラが言葉を続ける。
「色々問い詰めたいところだが、まずは食事にしよう。何も食べていないのだろう?」
皿を出し、グラスを出し、水を用意し……手際よく食卓の準備を進める彼女に、静かに頷いて答える。
「久しぶりに、お前の好きなものを作ってみたよ。さぁ、食べよう」
「うん、ありがとう……」
そうして僕らは台所から料理を運び出し、テーブルに並べて向き合った。
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僕の家は、祖父の代からこの小さな街でパン屋を営んでいる。
子供の頃から師匠である両親の教えを受け、「これなら大丈夫だな」というお墨付きを貰い、三代目として店のバトンを受け継いだ。
……と言うと、何だか大そうな事をやっているように聞こえるが、実際には遊びの延長から始まった穏やかな道のりだった。
ちなみに現在、両親は山を二つ越えた温泉の出る村へ移り住み、悠々自適の生活を楽しんでいる。
そんなこんなの結果、現在の僕は一人では少し広すぎるように感じるこの店舗兼住居で、日々黙々と頑張っているのだ。
「今宵の恵みに、感謝」
「天と地の贈り物に、感謝……美味しかったよ。ありがとう」
「そうか。なら良かった」
ほぼ同時に食事を終えた僕らは、そんな風に食後の挨拶を交わした。
失恋しても、腹は減る。案外自分は、図太い奴だったのかも知れ
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