「はあ……」
またため息が出る。これで何度目だろう。マギウスは虚ろな目でそう考えた。
時刻は午後五時。包丁を持った手は一分前から止まったままだ。そろそろ博人が帰ってくる頃合いだというのに、調理は一向に進まない。まな板の上に載せられた鰯が、恨めしそうにこちらを睨みつけてくる。
鱗は取った。腹は裂いた。そこから先に進まない。内臓も血も中に詰まっている。
生殺しだ。いっそ楽にしてくれ。
楽にしてほしいのはこちらの方だ。
「ああ……」
またため息が出る。これで何度目だろう。マギウスは虚ろな目で考えた。
博人はちゃんと出来ているだろうか。ひどい目に遭ったりしていないだろうか。面倒な客に絡まれていないだろうか。
気になる。やはり従者として傍にいるべきだった。気になって気になって仕事も手がつかない。
マギウスは完全に上の空になっていた。頭の中にあった献立表は完全に吹っ飛び、博人だけが渦巻いている。
思考が停止する。肉体も動作しなくなる。重傷だ。博人がシバの店に働きに出てからというもの、マギウスはずっとこの調子だった。
「はいはい。ぼーっとしてないで手を動かす。そろそろ博人が帰ってくるんだよ?」
そこに祖母がやってきて、抜け殻のマギウスに発破をかける。祖母の言葉でマギウスが我に返り、慌てて作業に意識を向け直す。この流れもまた、博人が仕事に行ってからの定番となった。もっとも祖母はマギウスが動けなくなる理由を知っていたので、彼女を強く咎める気は無かった。
一応注意はするが。
「あの子なら心配いらないって。シバちゃんなら大丈夫。絶対悪いようにはしないから」
「はい……」
祖母の言葉にマギウスが答える。声は出るが、そこに魂は宿っていない。今日のマギウスは、まだ「向こう側」にいた。
仕方のない子だ。祖母がため息をつく。当然祖母のそれはマギウスのものと種類が違う。その後祖母が一旦口を閉ざし、間を置いて口を開く。
「好きな人のことは、ちゃんと信じてあげなくちゃ駄目よ」
刹那、マギウスの脳天に雷が落ちる。視界が一瞬でクリアになり、意識が力任せに「こちら側」へ引き戻される。そうして元いた場所へ帰って来たマギウスが、即座に祖母へ視線を向ける。
「な、な、なにを……!?」
そのままマギウスが言葉にならない言葉を放つ。彼女の言語野は正常だ。祖母の奇襲攻撃に思考が追いついていないだけだった。それだけマギウスは混乱していた。
そこに祖母が追い打ちをかける。
「認めちゃいなさいよ。好きなんでしょう? あの子のことが」
「あ、あう……」
思考が追いつく。しかし今度は、申し訳なさから本音を出せずにいた。キキーモラは「主」に忠誠を尽くす魔物娘。自分から気持ちを吐露するなど、畏れ多いことこの上ない。
そんな葛藤などお構いなしに、祖母がマギウスに畳みかける。
「私は賛成よ。あなたなら博人のこと、ちゃんと支えてくれるってわかるから。それに多分、あの子の方もあなたのこと好きなんじゃないかしら」
「あ、いや、そんなことは……」
ありえない。マギウスは否定しきれなかった。正直に言うと、否定したくなかった。自分が博人に惹かれているのは事実だったからだ。そして博人もまた、自分を好いてくれているかもしれない。祖母の推測はマギウスにとって大きな喜びだった。
しかし彼女はそれを表には出さなかった。己を出さず、どこまでも平静を保たんとする。従僕の鑑である――あからさまに動揺していたので本心は筒抜けであったが。
「駄目よ、気取っちゃ。こういう時は素直になるべきよ」
案の定、祖母には気づかれていた。そして祖母はこの期に及んで心を偽ろうとするマギウスに、真面目な顔で助言を贈った。
そんなことくらいわかってる。マギウスは即座にそう思った。思うだけで口にはしなかったが。
「勇気出して。あなたなら出来るわ」
祖母が告げる。マギウスの顔は暗いままだ。祖母は小さく笑って、マギウスの肩に静かに手を置く。
「悩みなさい。悩むのもまた恋よ」
まさか人間に説教されるとは思わなかった。マギウスは心の片隅で驚いた。しかし祖母の言葉は、間違いなくマギウスの心に響いた。経験者の言葉には耳を傾けるものである。
「……私に出来るでしょうか」
「気負わなくていいわ。いつも通り、あの子を支えてあげればいいのよ」
恐る恐る問いかけるマギウスに、祖母が答える。いつも通り。本当にそれだけでいいのだろうか。
「いいのよ。博人が好きになったのは、いつものあなたなんだから」
悩むマギウスの背を祖母が押す。なんと心強いことか。
祖母の眼差しを受けながら、マギウスは小さく頷いたのだった。
いつも通りにいればいい。
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