第六話(前編)

 結論を先に言うと、博人はシバの提案を受け入れた。
 
「やってくれるかい? そりゃありがたい」
「ヒロト様!?」

 博人の肯定を聞いたシバは嬉しそうに頷き、マギウスは目に見えて動揺した。しかしキキーモラはそこですぐに己を律し、息を整え気持ちを落ち着かせてから、改めて博人に伺った。
 
「……本当に、よろしいのですか?」
「は、はい」
「本当の本当に、ここで働くおつもりなのですね?」
「はい……っ」

 博人の言葉は声量こそ小さかったが、迷いが無かった。彼の意志は固かった。克己心と庇護心に挟まれ、ジレンマに曝されたマギウスが渋面を浮かべる。
 シバが口を開いたのは、その時だった。
 
「そんなにやる気があるんなら、こっちとしても雇わないわけにはいかないね。でも流石に、明日からすぐ働けとは言わないよ。まずは親御さんに報告して、それから改めてうちにおいで」

 シバの言葉は優しかった。博人は小さく頷き、マギウスの困惑は晴れなかった。
 するとシバが、隣で燻るマギウスに発破をかけた。
 
「ほらほら、あんたもそんな顔しないの。坊ちゃんが決めたことを、あなたが応援しないでどうするんだい」
「それは……」

 わかっている。それくらい十分わかっている。博人を守る。博人を支える。それこそが従僕としての自分の責務だ。そんなことは百も承知だ。
 
「わかっていますとも……」
 
 なのに。だと言うのに。この胸のざわめきはなんだろう。自分の手元から博人が離れていく感覚に、マギウスはただならぬ焦燥と恐怖を覚えた。
 博人はそれに気づかなかった。シバはそれに気づき、小さくため息をついた。
 なぜここでため息をつくのか。博人はシバの行為の意味を悟れなかった。もしかしたら自分は何かまずいことをしたのだろうか。博人は途端に不安になった。
 
「ああ、違うよ。坊ちゃんは悪くないよ。あんたのせいじゃないんだ」

 即座にシバがフォローに入る。この刑部狸は他人の感情の動きに敏感だった。それでいて気配りも出来た。嫁にするなら今の内である。
 
「とにかく、今日はもう帰りな。それからまず親御さんに報告して、その後改めてうちに来なさい」

 シバが続けて言う。博人が再び頷く。マギウスも遅れて頷いたが、その顔は晴れなかった。
 
 
 
 
「へえ。いいじゃない。やってみてごらんよ」

 数時間後。家に戻った博人とマギウスは早速祖母にその話をした。祖母は即座にそれに賛成した。
 博人の顔が晴れやかになり、マギウスの顔が曇る。二人の表情を交互に見ながら祖母が続ける。
 
「いつかは自分の足で立たなきゃいけない日が来るんだ。今の内にそれに慣れておくのもいいんじゃないかい」

 あっさり肯定する。祖母の言動には迷いが無い。彼女は本気で博人の選択を歓迎していた。
 そんなのは嫌だ。マギウスは反射的に――本能が理性を振り切って――反論した。
 
「ですがお祖母様、今それをする必要はないのではありませんか? まだヒロト様は」
「シバちゃんの所に行くんでしょ? なら問題ないわよ。他の場所なら流石に待ってほしいけど、あの人のところなら安心できるわ」

 マギウスの反論を遮って祖母が言う。祖母は件の刑部狸をいたく信頼していた。二人は顔馴染みであり、博人やマギウスがここに来る前から友人同士であったのだが、博人たちがそれを知るのは当分先のことである。
 話を戻す。祖母が博人の方を向き、再び彼の肩を押す。
 
「行っておいで。何事も経験だよ」

 それが決め手になった。許しを得た博人は大きく頷き、マギウスはもうこの状況をひっくり返すことは出来ないと悟った。
 博人がシバの元で働き始めたのは、それから二日経ってからのことだった。
 
 
 
 
 祖母の言う通り、シバは博人の動かし方をよく心得ていた。彼女はピークタイム時に呼びつけていきなり接客をさせたりはせず、まず人気の少ない時間帯に呼んで品の陳列から始めさせた――現実でも新人には大体そう言った仕事からやらせるのだが、ここではその件には触れないでおく。
 
「これはここで、これはあっち。わからなくなったら地図を見て確認するんだよ」
「はいっ」

 午後二時。商品移動用の大きなカゴと店内の見取り図を渡しつつ、シバが博人に指示を出す。カゴの中には多種多様な品々が規則正しく詰め込まれており、それらを決められた場所に置いていくのが博人の最初の仕事だった。
 博人はその仕事を忠実にこなした。まだまだ手慣れておらず、動きもぎこちなかったが、それでも彼は自分の仕事を最後までやりきった。そして最後の一つを棚に置いた後、博人は次の指示を受けるために空のカゴを押してシバの元へ向かった。
 
「おお、終わったかい。よくやったね坊ちゃん。お疲れ様」

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