一か月。
博人が祖母の家に来て一か月が過ぎた。
長くもあり、短くもあり。どう体感したかは、当人のみの知る所である。ともかく博人はここで、起伏のない静穏な一か月を過ごした。
何もせず、ただぼうっと一日を生きる。それを三十余日、延々と続ける。時間の無駄と言えばそうかもしれない。他にもっと出来ることがあるだろう。正常な人間の大半はそう思うかもしれない。
だが博人は違った。博人にとっては、「何もしない」ということが何より必要なことだった。全てを忘れ、静けさと優しさに頭まで浸かる。それ以外に再生の途は無かった。急かすのも囃すのもいけない。誰がなんと言おうと、それは紛れもない事実だった。
「ねえ、マギウスさん」
「はい、なんでございましょうか」
そうして一か月が過ぎた。願い通り、博人の魂は再生を始めた。平時の域にはまだ到達していなかったが、彼の心は少しずつ快方に向かっていった。身に纏っていた陰はほんの僅か消失し、頬が緩む程度ではあるが笑みを浮かべることも多くなってきた。
良い傾向である。
「その、膝……ありがとうございます」
「いいのですよ。私もヒロト様に膝枕をしてさしあげるのは、とても好きですから」
そして博人の回復に一人のキキーモラが深く関わっていたことも、また確固たる事実だった。
扇風機の羽が回る音。蝉の鳴き声。女性の穏やかな息遣い。ここに来て、どれだけこれらの音を聞いただろう。
今日もマギウスの膝に頭を載せながら、博人はそんなことを考えた。彼が自分と祖母とマギウス以外のモノに目を向けるのは、これが初めてであった。静養開始から一か月。彼はようやく外の世界に意識を向け始めたのである。
「マギウスさん」
「はい、なんでしょうか?」
そんな折、博人が顔を動かしながらキキーモラの名を呼ぶ。彼がマギウスを名前で呼ぶようになったのはごく最近のことであり、これもまた前進の証であった。
しかしマギウスは大人だった。可愛い彼がようやく自分の名を呼んでくれたことに狂喜乱舞したりはせず――心の中では喜びで飛び跳ねていたが――表向きは完全に平静を装った。
優しくて頼りになる大人のお姉さん。マギウスは自ら設定した己のキャラクターを、徹底して守り続けた。それは「自分の方が大人なんだから、しっかりこの子を支えてあげなくては」という理屈から来る、子供っぽい意地だった。
「どうかなさいましたか、ヒロト様?」
見上げてくる博人を正面から見つめ返し、優しく微笑みながらそっと続きを促す。表情は崩れてない。大丈夫。心の内はまだ漏れてない。
そんなマギウスの不断の努力を、博人は知らなかった。気づいてもいなかった。当然である。彼はただ、マギウスの厚意に甘えるだけだった。
それでいい。今の博人がするべきは、まさに「それ」だ。それを咎めるのはお門違いだ。
「ちょっとマギウスさんにお願いがあるんですけど……」
博人が言い返す。お願いとは何か。マギウスが問い返す。
膝の上で小さく頷き、博人が口を開く。
「マギウスさん、時々買い出しに行ってますよね」
「ええ。いつもはお祖母様がお買い物をされるのですが、たまに私がお祖母様に代わって買い物をしております」
博人の祖母はまだまだ健康体だ。自分の足で店に赴き、生活必需品や食料品を調達するくらい朝飯前である。しかしそれでも老体であることに変わりは無いため、時折マギウスが祖母に代わって買い出しを行っていた。なお祖母はそれに関して「余計なお節介」とゲラゲラ笑っていた。
寝たきりや介護とは無縁の御仁である。
「それがどうかしたのでしょうか?」
閑話休題。マギウスが尋ねる。しかし博人はすぐに答えず、代わりにバツが悪そうに目を逸らす。
マギウスが小首を傾げる。数瞬後、博人が視線をマギウスに戻して口を開く。
「そ、その、買い物のことなんだけど」
若干早口になる。落ち着け。言葉を吐いてから一拍遅れて理性が警告する。
すぐにそれに従う。咳払いし、呼吸を整える。また目を逸らし、すぐマギウスを見る。
再度博人が声を出す。
「今度、俺も一緒に、行ってもいいですか?」
「え」
「マギウスさんと、一緒に買い物を……お手伝いしたいんです」
マギウスは、ポーカーフェイスを取り繕うので精一杯だった。
翌日。午後四時。
陽が傾き始めて暑さが薄れた頃合いを見計らって、博人とマギウスは外に出た。外はまだまだ蒸し暑かったが、昼頃よりはずっとマシである。
「ヒロト様、大丈夫ですか?」
「は、はい。平気です」
帽子を被り、首にタオルを掛け、しっかりと手を繋ぎながら、二人横並びになって道を進む。彼らは前日の博人のお願いを叶えるため、こうして仲良
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