「もし。そこの方」
夏の日の夕暮れ。家に帰ろうと田畑に囲まれた道を歩いていると、不意に声をかけられた。声に気づいて足を止め、そちらへ目を向けると、そこに一人の女性が立っていた。
背の高い女性だった。顔立ちの整った大人の女性である。そして背丈や顔と同じくらいに、特徴的な服装をしていた。
袖の長い厚手の上衣に、足首まで隠すロングスカート。露出とは無縁の「お堅い」衣装だ。ご丁寧に白い手袋まではめている。
その格好を何と呼ぶのかは知らなかったが、少なくとも今のような真夏日に着る代物ではないことは分かる。完全武装にも程がある。暑くはないのだろうか。
そう他人事のように考えていると、件の「暑苦しい」女性が再び声をかけてきた。
「もしよければ、道を教えていただきたいのですが。ここに来るのは初めてでして、どこをどう行けばいいのかまったくわからないのです……」
たおやかな口調で、申し訳なさそうに言ってくる。こちらが恐縮してしまうほどの物腰の低さである。実際、彼はそれを聞いて委縮してしまった。相手が見知らぬ人間だったのも、彼の及び腰に拍車をかけた。
「いやあの、えっと……」
だが彼は、そこで逃げ出すような軟弱者ではなかった。困っている人は放っておけない。彼は勇気を出して、初対面の大人の女性に声を返した。
「ど、どこに、行きたいんですか?」
緊張からか、歯切れの悪い言葉になってしまった。しかしこの時彼の心は、自分から一歩を踏み出した達成感でいっぱいだった。僕はやったんだ。一度出来た実績が彼を勇敢にさせた。
「あなたはこれから、その、どこに行こうとしてるんですか?」
「あ、はい」
再度問う。先方からレスポンスを得た女性もすぐ反応し、彼に言葉を返す。
「この近くに――」
女性が求めたのは、この村にある村役場への行き方だった。小さな木造の建物で、大事な会議は大抵ここで開かれる。その一方で、大事な時以外は一般開放され、ご婦人たちの井戸端会議場兼子供達の遊び場と化していた。田舎特有の「緩い」公的施設である。
それを聞いた少年は安堵した。そこはここから近く、何度か遊びに行ったことがあるから案内も出来る。最後までこの人の役に立てそうだと、故に彼は自然と微笑んだのであった。
「そこなら知ってます。案内出来ます」
少年が瞳を輝かせ、得意げに答える。自分に任せろと言わんばかりの熱意に、聞き手の女性は思わず一歩身を引いてしまった。
しかし女性はすぐに気を取り直した。姿勢を正し、少年に真っ向向き合い、彼に声をかけた。
「それでは、今からそこまで案内していただけないでしょうか?」
「はい!」
女性からの求めに、少年が元気よく頷く。続いて少年が手を差し出し、女性がその手を優しく取る。
場所によっては事案発生と取られても已む無しな状況である。しかし幸運にも――あるいは不運にも、ここは人気の少ない田舎の農村。それを目撃した者は一人もいなかった。
「ちゃんと僕についてきてくださいね!」
「はい。わかりました。よろしくお願いいたします」
少年が前を行き、後ろから女性がついていく。堅く手を握りあい、揃って笑顔を浮かべながら、夕暮れに染まる道を行進する。
傍目から見たそれは、非常に仲の良い姉弟のようであった。
「そういえば、まだ名前を名乗っておりませんでした」
そんな折、後ろの姉が思い出したように口を開く。弟が反応し、しかし歩みは止めぬまま、後方の彼女に声を返す。
「名前ですか?」
「はい。ここまでしていただいたのに、名前も言わずに別れるのは無作法でございますから」
お堅い言葉遣いで女性が答える。初めて聞いた理屈に、少年は「そういうものなのか」と感心する。
その最中、続けざまに女性が言った。
「私の名前は――」
「名前」
「ん?」
唐突に出た博人の呟きに、同じ部屋にいた祖母が反応する。時刻は午前十時。家事がひと段落し、祖母が博人のいた部屋にやってきて寛いでいた時のことである。
「あの人のこと、まだ名前で呼んだことない」
博人が懸念を口にする。「あの人」が誰を指しているのか、祖母はすぐに理解した。
「呼べばいいじゃない」
そしてさらりと言い返す。博人は即答せず、畳の網目を数えながらやがて答える。
「うん……」
イエスでもノーでも無い、曖昧な返事。今の博人にはそれが精一杯だった。そもそも今の彼の悩み自体が、常人からすれば取るに足らないものであった。
祖母はそうは思わなかった。彼女は博人の側に立って考え、それが彼にとって至難だが大事な一歩であることを把握していた。
「いつもお世話になってるんでしょ?」
それとなく指摘する。博人の口から小さな呻き
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