「ヨシキよ、我の毛づくろいをせよ」
ある土曜日。穏やかな日差しが窓から差し込む午後のひと時。
陽光を浴びながらリビングでくつろぐ秋田芳樹の耳に、同居人であるケット・シーの命令が飛んできた。
「我は退屈である。なので暇潰しもかねて、我の面倒を見るのだ。嫌とは言わせぬぞ」
彼女は元は芳樹の飼い猫であり、彼とは長い付き合いであった。そしてある日、仕事を終えた芳樹が家に帰ってくると、その猫は何の前触れも無しに「彼女」へと変貌を遂げていたのだ。彼女――元飼い猫の「べに子」曰く、ご主人様が好きすぎて、気づいたらこうなっていたとのことである。
以来、べに子はケット・シーとして、いつもと変わらず芳樹の家でゴロゴロしていた。芳樹もそんな彼女を拒絶せず、これまでと同じようにべに子と同棲を続けた。
「今あ? ちょっとめんどくさいから後にしてよべに子ー」
「べに子と言うでない。今の我は高貴なる猫の魔物であるぞ。故にそれに相応しい名前、女帝クリムゾンと呼ぶのだ」
そうして魔物化したべに子であったが、ケット・シーとなった彼女は若干面倒くさい性格になっていた。元からそんな性格だっただけで、こちらがそれに気付かなかっただけかもしれない。
とにかく、今の彼女はまさしく「我が儘な女帝」であった。飼い主と飼い猫という立場を無視し、事あるごとに芳樹を顎で使うようになったのだ。
「――まあ、そなたがかつての呼び名に愛着を持っているなら、好きなだけべに子と呼ぶがよい。我は気に食わんが、そなたがどうしてもと言うなら、許可しないでもないぞ?」
しかし何だかんだ言って愛嬌はあった。べに子にはツンデレの素質があった。当然芳樹もそこに気づいていた。だから芳樹はべに子の言動に目くじらを立てず、良好な関係を築くことが出来ていた。
当時捨て猫だった幼いべに子を拾い一緒に過ごすようになって、もう五年になる。これだけ一緒にいれば、お互い何を考えているのか手に取るようにわかるというものだ。
だから二人は上手くいっていた。まさに最良のパートナーであった。
「だからやるのだ。やれヨシキ。我を退屈から解放するのだー」
ケット・シーのべに子が腹ばいのまま芳樹の元に近づき、胡坐をかいた彼の太腿に顎を載せる。その反動で王冠が外れて転がっていく。言葉遣いはどこまでも尊大だったが、行動には可愛らしさが溢れていた。
芳樹もそれを痛感した。そして可愛さのあまり自然と手が動き、べに子の頭を優しく撫で始めた。
「こらっ。頭を撫でるでない。毛づくろいをせよと言ったのだっ」
最初べに子はそう言って反発した。しかし愛する主の手の感触には逆らえず、数秒で白旗を挙げた。
「ふにゃあ……」
目を細め、耳を垂れ下げ、口から気持ちよさげな言葉を吐き出す。その様子が可愛らしくて、芳樹はもっとべに子を撫でていく。
くうん、くうん。二人きりのリビングに、猫の甘える声が響く。
「……はっ」
しかしある程度撫でたところで、べに子がようやく我に返る。
「やめい! やめぬか! 我は毛づくろいをせよと言ったのだ!」
べに子が大声をあげて頭を動かし、芳樹の手を振り払う。一方で手を払われた芳樹は嫌がる素振りを見せず、ただ苦笑するだけであった。
先方の注文を無視し、こちらが勝手に撫でたのだ。悪いのはこちらである。
「はいはい。毛づくろいな」
なでなでを中断された芳樹は笑いながら、近くの棚の上にあった猫用ブラシに手を伸ばした。対するべに子は「まったくそなたは……」と頬を膨らませつつ、しかし芳樹がブラシを取る様子を期待に満ちた眼差しで見つめていた。芳樹の腿にも顎を載せたままである。
口では拒否していたが、本当は彼とスキンシップを取るのは好きであった。平時は素直になれないだけだった。
「ほら、ブラッシングするから、座り直して」
「今度はちゃんと頼むぞ」
ブラシを持った芳樹が声をかける。そのお願いを聞き入れたべに子が腿から顎を離し、芳樹の胡坐の真ん中に腰を降ろす。芳樹の体躯の中に直立した猫がすっぽり収まり、そこでべに子がおもむろにマントとリボンと下衣を外す。毛づくろいの時に邪魔だからだ。
「では頼む。優しく、しっかり整えるのだぞ」
「仰せの通りに」
ほぼ生まれたままの姿になったべに子が、期待に胸膨らませながら命を出す。芳樹もそれに頷き、ブラシを使ってべに子を撫で始める。
最初は頭。自慢のヘアスタイルを崩さぬよう、芳樹が慎重にブラシを動かす。櫛の先端が頭皮を刺激し、頭髪が整えられていく。べに子はその感触に喜びを感じ、だらしなく口を開けて鳴き声を発した。
次に背中。毛並みにそって、優しく動かしていく。小さくなだらかな背中をブラシが上下する度に、べに
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