セバスチャン

「セバスチャン!」

 屋敷の中に女の叫びが響く。赤い絨毯の敷かれた廊下のど真ん中で、高価なドレスに身を包んだ一人の女が口を開いて再度叫ぶ。
 
「セバスチャン! どこにいるの! 早く来なさい!」

 名を呼ぶ声だけが廊下に響き、壁に跳ね返って残響を残す。数分後、一人の少年がその廊下に面した扉の一つを開けて姿を現す。
 
「は、はいっ。お呼びでしょうか、ご主人様」

 眼前の女を主と呼ぶその少年――しっかりした造りの半袖半ズボンを着こなした少年は、見るからに怯えていた。飼い主に怒られることを察した子犬のように身を縮こませ、上目遣いで女主人を見つめてきた。双眸は潤み、肩はぷるぷる震えていた。
 そんな年端も行かない――見るからに齢十は越えてないであろう少年に対し、ご主人様と呼ばれた女が言葉を返す。
 
「ええ。こちらへ来なさい」

 相手の反論を許さない一方的な発言だった。それは生まれてから今まで『いと高き身分であり続けた者』のみが放つことの出来る、躊躇なき見下しの言葉であった。
 一方の少年セバスチャンは凡人であった。権力も家柄もない普通の人間だった。故にセバスチャンは肩を丸め、怯えたように主の元に向かった。凡人にとって王の命は絶対である。
 
「これを見なさい」

 そして素直に自分の下へ来た少年に対して、主――高貴と威厳を兼ね備えた鋭い顔立ちの女が、窓の一つを指差しながら口を開いた。
 
「ここよ。この隅のほう。まだ埃が残ってるじゃないの」

 彼女の指した部分には、確かに埃が残っていた。しかしそれは意識して凝視しないと気づかない程の、本当に小さな汚れであった。
 それを知った上で、女主人が言葉を続ける。高貴なる者として、僅かな綻びも見過ごすわけにはいかないのである。

「誰が汚れを残していいって言ったのかしら? 掃除をするなら、ちゃんと最後までしっかりやりなさい。いいわね?」

 その言葉は、相手を突き放す口調で放たれた。厳格と言うには必要以上に棘の籠った、冷たい台詞だった。
 その上ここでは、下僕に反論の機会は与えられない。召使と規定された少年は何も言えず、ただ俯いて小さく頷くだけだった。
 
「はい、わかりました……」
「わかればよろしい。あなたも完璧な私に仕えるのだから、完璧に仕事をこなしてみせなさい。それが我が屋敷に住む者のルールなのだから」
「……」
「返事は!」
「は、はい! ごめんなさい! やりなおします! すぐに雑巾持ってきます!」

 業を煮やした主の喝を受け、少年が飛び起きるように反応した。そして凡人セバスチャンはすぐに命令を遂行しようと、清掃用具を取りに廊下の奥へと走り去っていった。
 なおそれまで彼がいた部屋では、本の整理整頓が行われていた。清掃用具の類は持ち込んでいなかった。
 閑話休題。そうして少年が走り去り、後には女主人だけがそこに残された。この時彼女は後悔と悲哀の入り混じった、寂しげな表情を見せていた。
 
「ああ……」
 
 女主人が肩を落とし、言葉を漏らす。その丸まった背中にそれまで放っていた冷徹さはなく、ただ深い後悔のみがあった。
 そして自分がヴァンパイアであることを呪い、それまでの自分の辛辣な態度に怒り、彼女は一人眉間に皺を寄せた。
 
 
 
 
 そのヴァンパイアは件の召使の少年と共に、郊外にある小さな屋敷で暮らしていた。そこは一軒家を一回りグレードアップした程度の本当に小さな家屋であり、二人で暮らすには十分な大きさであった。
 そんな屋敷の中で、召使の少年は家事や主の世話を一手に引き受けていた。とはいっても屋敷はそれほど大きくないし、一日に扱う食事や洗濯の量も些少であったので、くたびれる程の重労働というわけではなかった。
 
「セバスチャン、今日の昼食は何かしら?」
「は、はい。今日のお昼はオムレツです」
「オムレツね。わかったわ。高貴な私に相応しい、完璧な味をお願いするわね」
「わ、わかりましたっ」

 そしてこの日も、少年セバスチャンは掃除を終えた後で主人の――ある種無茶苦茶な――要求に答えていた。アバウトな命令であったが、いつものことだったので少年は気にしなくなっていた。
 高圧的なヴァンパイアの主人に対する及び腰な態度も、いつもと同じであった。
 
「し、失礼します……」

 注文を聞いてから数十分後、セバスチャンが台車を押しながら主人の部屋に入って来た。そしていつものように弱気な態度のまま、少年は部屋の真ん中に置かれたテーブルの下へ向かった。
 そこには既に女主人が腰かけていた。ヴァンパイアは椅子に座ったまま何も言わず、ただじっと召使の少年を見つめていた。
 
「ご主人様、お食事をお持ちしました」

 セバスチャンが主人の真横に到達する。鋭利な瞳で彼を見つめたまま
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