「先輩、この後ヒマっすか?」
そもそもの始まりはその台詞だった。丸山一郎が部下の梅田からその言葉を聞いたのは、丸山が今日の仕事を終え、帰り支度を済ませていた時であった。
上司の席まで近づいてきた梅田が、彼に向かって満面の笑みを浮かべながらそう言ったのである。当然、丸山はそれに反応した。
「暇って? なんだい急に?」
「いや、言葉通りっすけど。この後何か予定とかは無いんすか?」
「予定か……」
特にない。丸山は何も考えず、その旨を素直に答えた。彼は梅田がそう問うてきた理由の追及よりも、彼の問いへの返答を優先した。お人好しであった。
「あ、無い。そうっすか。無いっすか。無いのかー、いやーよかったなー」
一方の梅田はそれを聞いて、ますます喜色満面になった。どうしてそこまでニコニコしているんだ。丸山は一層疑問に思った。
流れに身を任せるように、丸山はそのことを尋ねた。
「どうしたんだ、そんなに嬉しそうにして。何か理由でもあるのか?」
「いや、大したことじゃないんですけど。ちょっとこの後、俺につき合ってほしいなーって思いまして」
「君に?」
「はい。ぜひ来てほしいところがあるんすよ」
丸山からの問いに、梅田は笑顔で答えた。二十代の若者が見せる、瑞々しさと軽薄さが同居した眩しい笑みだった。
随分嬉しそうだ。そんなことを考えながら、丸山は梅田に尋ねてみた。
「どこに行くつもりなんだ?」
「駅前のクラブっす。セパレイシアっていう名前の」
「ああ。あそこか」
梅田から名前を聞いて、丸山は全てに合点がいった。なぜ梅田がこうも嬉しげなのか。なぜ自分を誘おうとしているのか。
全てを理解した上で、丸山は申し訳なさそうに梅田に言った。
「でも俺、そういう所行ったことないんだよなあ……。大丈夫かな?」
「大丈夫っすよ。俺の馴染みの店っすから。それにこういうのは、何事も経験っす」
「いやでも、ほら、なんていうか、怖いじゃん」
「そんな怖いものでもないっすよ。怖いのは最初だけっす」
「本当?」
「本当本当」
疑り深い上司に、梅田が笑顔で言い返す。もっとも、何故丸山がここまで慎重な態度を取るのかについては、梅田も十分理解出来ていた。
理解していたが故に歯がゆかった。尊敬する上司の偏見――もっと言うなら妻への偏見を拭い去りたいと、彼は常々思っていたのだ。
「行ってみましょうよ。絶対変な事にはなりませんから。体験してみれば絶対病みつきになりますから」
だから梅田は一層しつこく食い下がった。そして丸山もそれを受けて、内心まんざらでもない気分になっていった。
梅田への信用と、自分の中に燻る好奇心が、彼の心境を傾けさせたのだ。
「……わかったよ。そんなに言うなら、ちょっと行ってみようじゃないか」
そして丸山はとうとう頷いた。腹を括った。梅田もそれを聞き、さらに嬉しそうに笑みを浮かべた。
「マジで? やった! じゃあすぐ行きましょう! 準備してください!」
早口で梅田がまくしたてる。丸山は苦笑を漏らしながら、大仰に立ち上がった。荷物をカバンに押し込み、スーツを羽織ってネクタイを締め直す。
未知の世界を前にして、彼の心は期待と緊張で張り裂けそうだった。
クラブ「セパレイシア」とはSMクラブである。マゾヒストの男性を対象とした、魔物娘の経営する店だ。それぞれに宛がわれた個室で、思い思いにプレイを楽しむスタイルを取っている。
オーナーは魔物娘。店で働く「従業員」も、当然ながら全員魔物娘。人間のスタッフは皆無。もっと言うと、実際にサービスをするのは専ら独り身の――夫に飢えた――魔物娘である。故にここは「出会いの場」としても機能していた。一応、所帯持ちの従業員もいるにはいたが、彼女達は全員裏方に徹していた。
梅田の妻、メドゥーサの「キャシィ」も、そこで働く従業員であった。
「あら、ナオト。お仕事終わったの?」
「おう。そっちは?」
「見てわかるでしょ。まだ仕事中」
「そうなのか? じゃあ帰った方がいいか?」
「べ、別に迷惑とは言ってないでしょ! す、好きなだけいればいいじゃないっ」
キャシィが愛する夫の存在に気づいたのは、彼が店の自動ドアを開けたその瞬間だった。妻に名前を呼ばれた梅田もまた嬉しげに言葉を返しつつ、キャシィの待つ受付口に向かって歩いていった。互いの距離が狭まる間も二人のやり取りは続き、そして梅田と丸山がキャシィの座る受付前まで来た時には、キャシィの顔は真っ赤に茹っていた。
「ところでそっちの人間は……」
そしてそこまで来て初めて、キャシィは梅田の隣にもう一人いることに気づいた。気づいた後、彼女はその男を一瞥し、即座にその正体に気づく。
「ま、丸山
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