脳筋夫婦の熟年旅行記

「どっか旅行行こうぜ」

 そもそもの始まりは、夫であるストックが発したその言葉であった。彼曰く、「俺達が結婚してもう四十年になる。その記念として、どこか遠い所に旅行に行かないか」というものであった。
 既に二人の子供は自立し、親元を離れて思うように生活している。この機会に一度、夫婦水入らずで遠出しようと言うのである。
 
「近所にふらっと出かけるんじゃなくてさ、いっそのこと船とか乗って、別の国行ってみようぜ。絶対面白いって」

 御年六十歳――しかしインキュバス化に伴う肉体活性に伴い、肉体年齢は三十代後半で止まっていた――になるストックは、隣にいた妻のサラマンダーにそう言った。午前九時、自宅である洞窟の入口前で、夫婦仲良く日課の運動に汗を流していた時のことであった。
 健やかな運動に精を出していた時の、唐突な提案であった。しかしそれに対して、彼の妻であるアイリスは笑顔で答えた。
 
「遠くに旅行か。いいな、それ。たまにはそういうのもアリかもな」

 サラマンダーのアイリスはそう言って、それぞれの手に持っていたダンベルをゆっくりと足元に置いた。それから彼女は次に足元に置いたそれの横にあるもう一つのダンベルを手に取り、またそれを持ち上げて一定のテンポで動かし始めた。
 ゆっくりと、腕に負担をかけるようにダンベル運動を続けながら、アイリスがストックに声をかける。
 
「で、どこに行くんだ? 何かアテはあるのか?」
「そうだな。せっかくだから……」

 個人用携帯針のムシロの上で、針に指を置き、指一本で逆立ちをしながら、余裕綽々な顔でストックが言った。
 
「ジパングなんてどうだ? あそこは魔物と人間が仲良くしてるって聞くし、ここよりはずっと暮らしやすいんじゃないか?」
「ジパングかあ……あそこ、有名な温泉があるって話を聞いたことがあるな」

 近所に住む魔物娘から聞いたジパングの話を思い出しながら、アイリスが思いを巡らせる。そしてここには無い、全く違う温泉の姿を思い描き、アイリスは自然と頬をほころばせた。
 
「いいなあ……行ってみてえなあ……」

 アイリスは基本的に熱いものを好む性格であった。熱い環境。熱い料理。熱い闘い。熱い愛。そして熱い湯船。いつも自分が夫と一緒に使っている温泉とジパングのそれは、どっちが熱いのだろう。
 アイリスは俄然興味を持った。そして感情のままに、アイリスはストックに言った。
 
「よし! そこ行こうぜ! 絶対行こうぜ!」

 アイリスが興奮気味に答える。そのまま感情を抑えきれず、ダンベルの持ち手を握りつぶして粉砕する。
 ダンベルの「重り」の部分が猛烈な勢いで落下する。重りが地面に接触し、次の瞬間、鈍い音を立てて大地にめり込んだ。
 それに呼応するように、彼らの背後で火山が噴火する。溶岩が頂上から流れ出し、彼らのすぐ脇を流れ落ちていく。噴き出す溶岩が冷えて凝固して火山弾となり、彼らの目と鼻の先に着弾して破裂する。
 二人は動じなかった。どこに何が落ちてくるのか、気配で察することが出来たからだ。そうしてストックは周りの環境などお構いなしに針の筵から飛び降り、そして念を押すようにアイリスに言った。
 
「でもアイリス。俺達はこことは違う、遠いところに行くんだからな。いつもの調子でいたら駄目だぞ」
「いつもの調子? なんだよそれ」
「まずはちゃんと服を着ることだな。それと喧嘩も控えること。誰と会っても恥ずかしくないよう、お淑やかに行くんだ」
「服かぁ」

 アイリスはまずそこに気をやった。そしてそう言って、今の自分の姿に目をやった。傷だらけで赤褐色の、程よく筋肉のついた平坦な体。それを申し訳程度に覆うスポーツブラとホットパンツ。いつもの私服である。
 
「これじゃダメなのか?」
「もう少し露出の無いほうがいいな。ケンカしに行くんじゃないんだ。もうちょっと一般的な格好していこうぜ」
「お前だっていつも上半身裸じゃねえか。どうするんだよ?」

 彼はこの時ズボンだけを身に着けていた。靴も履いておらず、アイリスと結婚する前から裸足で暮らしていた。そうして長年の鍛錬と喧嘩によって作られた、しなやかで筋肉質の肉体を常に晒していた彼は、それに対して澄まし顔で応えた。
 
「俺はジャケット羽織っていくよ。お前も変に服変えないで、その上からコートなりチョッキなり着ていけばいいんじゃないか?」
「動きにくくなるから嫌なんだけどなあ……まあいいか」

 アイリスはどこか不満げながらも、その愛するストックの助言に従うことにした。そして服の問題を片づけた後、ストックは再度、念を押すように彼女に言った。
 
「それともう一回言うが、向こうでは静かに過ごすんだぞ。変にムラムラして、喧嘩するのはご法度だからな」
「わかってる、わかって
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