其の一/ネコマタの場合

楓と男が初めて出会ったのは、今から一か月前のことだった。その日の真昼時、楓は猫の姿のまま、男の家の軒下で体を丸めていた。最初から男目当てにその家に近づいたのではない。日陰を探していてたまたま目についたのがその家だっただけであり、そこに辿り着いたのは全くの偶然であった。
 
「うん? 猫か?」

 そして買い出しから帰って来た件の男が楓を見つけたのも、言うなれば偶然の産物だった。彼は入口の戸の横で気持ちよさそうに体を丸めている猫を見つけると、興味本位からその猫に近づいていった。
 
「なんだお前、野良猫か?」

 男から声をかけられ、楓が億劫そうに顔を上げる。そこにいたのは、小さな丸眼鏡を鼻の上に乗せていること以外にはさして特徴のない、凡庸な男だった。身に着けていた衣服もどこでも買える平凡な着流しであり、手に持っていた手提げ袋もごくごく普通の代物だった。
 まさに「普通」が人の形を取っているような、面白味のない存在であった。
 
「猫か。珍しいな……あれまだ残ってないかな?」

 そうして人間観察に終始していた楓を尻目に、男はそんなことを呟きながら戸を開けて自宅の中へ入っていった。家の主である男は、必要以上に楓に構おうとはしなかった。
 そして男が姿を消すと同時に、楓もまた頭を降ろして脳内から男の存在を抹消した。さして興味のない人間の顔を一々覚えていられるほど、楓は頭の冴えた魔物娘ではなかったからだ。彼女はその男についての思索を早々に打ち切り、最初の目的――日陰でくつろぐことに精力を注ぎ直した。
 しかしそれから数十分ほどして、唐突に男が出入口の戸を開けて外に出てきた。手に横長の皿を持った男は、何かを探すように頻りに首を動かしていた。
 
「お、まだいたか」

 どこか安心したように男が呟き、楓の前に腰を降ろす。今度は何の用だ? 平穏を乱され若干不機嫌な顔をする楓の目の前に、男が手に持っていた皿を置いた。
 皿の上には秋刀魚の網焼きが置かれていた。
 
「ニャッ!?」

 肉付きの良い秋刀魚を丸々一尾網焼きにしたそれを見て、楓は思わず跳び上がった。そして首を忙しなく動かし、焼き秋刀魚と男の顔を交互に見やった。
 
「腹減ってないか? それやるよ」

 そして楓が自分を見つめてきた時、男がさりげない口調で眼前の猫に告げた。彼はその猫が魔物娘であることに気付いておらず、これにしたところで、ただの気まぐれから野良猫に餌をやっているだけでしかなかった。

「ほらチビ、遠慮しないで食えって。それとも魚は苦手だったか?」
「……」

 そして楓は、そんな無知な男の気まぐれに乗ることにした。腹が減っていたのは事実だったからだ。
 口で秋刀魚の腹を咥え、男に軽く頭を下げる。魔物娘として、受けた施しに対する礼を忘れてはならない。そして一礼を済ませた後、楓は家の向こう側にある草むらに向かって一直線に駆け出し、その中へ飛び込んでいった。まさに疾風迅雷の如き速さであった。
 
「あいつ、あんなに腹減ってたのか。まともなもの食べてないのかな? 野良猫っぽかったし」
 
 そうして一瞬の間に消えた猫の姿を見届けた後、男はどこか満足げに皿を拾って家の中へ戻っていった。彼はその野良猫が魔物娘であることには最後まで気づかないままだった。
 
「まったく、お人好しにも程があるにゃ」

 一方の楓は、もらった秋刀魚を草むらの中で食べながら、見知らぬ男に悪態をついた。しかしその秋刀魚はとても美味かった。
 そして骨だけ残して平らげた後、楓は草むらで体を丸めながら、再び男のことを思いだした。
 
「……またあそこに行けば、魚くれるかな?」

 楓の頭を占めたのは、非常に現金な考えであった。そして翌日、楓はそれを確かめるために――決して最初からご飯目当てに行ったのではない――再びその男の家に向かった。目的の家に着いた後、楓は昨日と同じように軒下で体を丸め、家主を待った。
 
「あれ、お前……昨日の猫か? また魚が欲しくなったのか?」
 
 案の定、外出から帰って来た男は楓の存在に気付くと、苦笑しながら家の中に戻っていった。そして何分か経った後に戸を開けて再び姿を見せ、楓の目の前に皿を置いた。
 
「ほら、食べな。今日の魚は新鮮なやつだ、わかるか?」

 どこか楽しそうに男が問いかける。楓はそれを無視して、皿の上にある焼き魚に食いついた。
 確かに美味い。これは格別だ。まるで今日水揚げされたばかりのような新鮮さに、楓は思わずうなり声をあげた。
 そしてその一方で、それを食べながら楓は確信した。この時間にここに来れば、いつでも食事にありつける。皮ごと魚肉に噛みつき、口の中で咀嚼し、その風味と味に酔いしれながら、楓は明日もここに来ようと思った。
 
「どうだ? 美味いか?」

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