傾国の狐

 吉川武彦は、社畜である。
 社会人生活二年目に突入する彼は、自分の勤める会社がいわゆるブラック企業であることを痛いほど実感していた。
 早朝出社に長い残業。土曜出勤は当たり前にあり、週によっては日曜出社も存在する。人手不足は解決せず、それどころか日を追うごとに社員が姿を消していく。それが彼の業務を増やし、さらに退社時間を遅くする。
 悪循環である。そのくせ給料は安く、ボーナスも残業代も多くはない。出るだけマシと考える時点で、大分毒されているなと自嘲してしまう。これが社会人になるということか。
 
「すいませんが、辞めます」
 
 その日もまた、一人の社員が退職届を出しに来た。それは自分の一年先輩だった。上司は渋い顔を浮かべ、引き止めようとしたが、先輩は頑なだった。最後は退職届をデスクに叩きつけ、逃げるようにオフィスから去っていった。
 
「はあ……」

 彼がドアから外に出ると同時に、何処かからため息が聞こえる。それが場の空気をさらに重くさせる。
 今日も残業だな。その重い空気の中、武彦はどこか他人事のようにそんなことを思った。
 
 
 
 
 案の定、その日も彼は夜遅くまで仕事をこなした。終電帰りじゃないだけマシか。夜十時を指す腕時計の針を見ながら、駅を出た武彦は笑ってそう思った。
 笑うしかなかった。ここより酷い所はもっとあると、そう考えて自分を慰めることもした。どちらにしても、ただ終わった後で虚しさしか残らなかった。
 
「あーあ……」

 どれだけ自分に言い訳をしても、辛いことに変わりはない。いっそ自分も辞めてしまおうか、とも考えたが、今のご時世に転職するのは非常に厳しい。次の仕事が見つかるかどうかわからないし、そこが前いた職場より良い環境かどうかもわからない。
 八方塞がりだ。少なくとも、武彦は今の自分の状況をそう結論づけた。誰か、これを変えるいいアイデアがあったら是非教えてほしい。
 
「あるわけないか」

 そんな都合のいいことなど起こるはずもない。武彦は神頼みをあっさり諦め、重い足取りで家路についた。バスに乗って最寄りの停留所で降り、そこから徒歩で自宅に向かう。帰り道は暗く、まばらに立つ街灯が申し訳程度に足元を照らし出すだけだった。
 どうでもいい。早く帰ろう。日々の景色を見て感傷に浸る余裕も無い。武彦は軋む体に鞭打ち、いつもの道を進もうとした。
 
「もし、そこのお方」

 進行方向、暗闇の向こうから声がしたのは、その時だった。武彦が驚いて足を止めると、声の方から続けて足音が聞こえてきた。
 かつん。かつん。硬いヒールがコンクリートを叩く音。その甲高い音が、小気味よく周囲に響く。武彦の耳もそれを捉え、自然と音の鳴る方へ意識が向けられる。
 やがて声の主、靴音の主が街灯の下に立つ。その姿を露わにして、それが再び武彦に声をかける。
 
「お疲れのようじゃの」

 美女だった。自分よりも一回り背が高く、手足は細く、胸はたわわ。腰は引き締まり、臀部は肉感たっぷりに後ろに張り出している。そんなわがままな肢体を際どいスリットの入った赤いチャイナドレスで包み、銀色の長い髪をしなやかに伸ばしていた。
 そしてなにより目を引いたのが、頭から生えた獣のような耳と、背の腰辺りから生えた九本の銀の尻尾だった。
 
「こんな夜遅くまでお仕事だなんて、本当にお疲れ様、である」
 
 作り物には見えなかった。あの自然な揺らめきは、人工のものではない。
 人間ではない。
 
「待て待て。そんなに警戒するでない」

 武彦の心中の恐れを敏感に察知した「それ」が、引き留めるように声をかける。いきなり呼び止められ、恐怖から武彦が足を止める。
 
「わらわはただ、そなたを癒したいだけじゃ。取って食おうとはせぬ。安心するがよい」
「何を……?」
「ふふん」

 女――のように見える何かが告げ、武彦が戸惑う。見た目的に女な「それ」はただ怪しく笑い、一歩踏み出し、次の瞬間武彦の眼前に立つ。
 
「怖がるな、ということじゃ」
 
 零距離から女の声。一拍遅れて風が凪ぎ、武彦の全身を撫でていく。
 
「そなたはただ、わらわの施しに与ればよい」
 
 一瞬の出来事。瞬きする間もなく距離を詰められ、武彦は言葉すら出せない。
 やはり人間ではない。彼の中の生存本能が、けたたましくサイレンを鳴らす。
 
「そうじゃな。まずは汗を流してしまおう」

 人の皮を被った「それ」が優しく言う。彼女の金色の瞳がまっすぐに武彦を射貫き、それから目を離すことができない。
 「それ」が手を上げる。人差し指だけを伸ばし、すらりと伸びた指先を武彦の額に当てる。
 
「あ」

 刹那、武彦の視界が暗転した。
 
 
 
 
 次に意識が戻った時、武彦は浴室の中に全裸で座っていた。それ
[3]次へ
ページ移動[1 2 3 4 5 6]
[7]TOP
[0]投票 [*]感想
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33