「月明かり」を出た後、具体的に何をどうしたのか。男は全く覚えていなかった。
せめて記憶していることと言えば、煌びやかで淫靡な雰囲気の漂う横丁の街並みだとか、デオノーラと一緒に入った宿屋のロビーが薄暗くいやらしい気配に包まれていたとか、そういうおぼろげなものばかりである。通りを包む喧騒も、そこを行き交うカップルの姿も、男の思考には入らなかった。そんな余裕は無かった。
とにかく、男とデオノーラは横丁にある宿屋の一つに入り、個室の一つを借りた。当然ながら、室内の装飾やら間取りやらも頭の中には入らない。男の五感がキャッチするのは、座り込んだツインサイズベッドの柔らかさと、奥から聞こえてくるシャワーの音だけだった。
「ま、待たせたな」
やがてシャワーの音が止む。しばらく経って、奥からデオノーラがやってくる。この時彼女は裸体の上からバスタオルを巻いただけの格好をしており、ガイドをしていた時よりも遥かに煽情的な雰囲気を纏わせていた。
それでいて、そこには女王としての威厳と女性としての気恥ずかしさも同居していた。目を伏せ、頬を赤らめ、しかし背筋はピンと伸ばして腰に手を当て仁王立ちする姿は、もはや属性の暴力だった。
「あっ……」
「お、おい。何を呆けている。次は貴様の番だろうがっ」
秒で見惚れてしまった男に、デオノーラが喝を入れる。そういう女王も顔を真っ赤にして恥ずかしがっていたが、そこは偉大なるドラゴン。己の恥を捨て、勇気を奮わせ男の尻を叩いてみせた。
「夜は長いが、無限ではない。早く済ませるのだ」
「えっ、あ、はいっ」
そこで男が正気に戻る。そして男は飛び跳ねるようにベッドから立ち上がり、大急ぎでシャワーを浴びに向かった。
そしてまた記憶が途切れる。全裸になり、熱い湯の雨を頭から被ったことは覚えている。だが逆に言えば、そこでの記憶はそれしかない。男は気づいた時には体の汚れを落とし終え、腰にタオルを巻いただけの姿でデオノーラと隣合ってベッドに腰かけていたのだった。
「……」
裸体を晒す故に熱が逃げる。体と頭が冷え、ようやく思考が鮮明になる。
最初に感じ取ったのは沈黙だった。男もデオノーラも黙り込み、部屋の中をどこか気まずい空気が漂い始める。
「とうとう来たな」
その中で、デオノーラが口火を切る。またも女王に背中を押された男が、彼女に遅れを取るまいと続けて口を開く。
「き、きちゃいましたね……」
「うむ……」
「今日初めて会ったばかりなのに……」
「……ああ、そうか。そういえば私達、今日出会ったばかりなのだな」
ファーストコンタクトを思い出すかのように、デオノーラがしみじみ呟く。そして過去の光景を脳裏に見て小さく微笑み、すぐにそれを消して男に問う。
「しかし今更だが、よいのか? 初めての相手が今日会ったばかりの私で」
「デオノーラ様こそ、いいんですか? 初めてが俺みたいな普通の人間で」
質問に質問で返す。問い返されたデオノーラは暫し黙り、その後答える。
「私は良いと思っている」
「えっ?」
「貴様はまだ信じられないかもしれないが、こう見えても私、結構貴様に惚れているのだぞ」
堂々と言ってのける。この時デオノーラは耳朶まで真っ赤にしていたが、それに気づくだけの余裕は男には無かった。
気づかぬまま、再び男が尋ねる。
「……具体的に俺のどこが好きになったんです?」
「全てだ」
即答する。デオノーラの言葉に迷いは無い。直球すぎる回答に、男は二の句を告げなかった。
それをいいことに、デオノーラが追撃をする。
「貴様は初めて私と会った時、とても自然な態度で接してくれたな。それに私の正体を知った後も、貴様は変わらず私を信じてついてくれた」
「それは、別に」
「貴様にとっては特別でも何でもないことかもしれない。だが私には、それがとても輝いて見えたのだ」
男の謙遜を遮るように、デオノーラがうっとりした声で言い放つ。同時にデオノーラが手を伸ばし、男の手の上に自分のそれを重ねる。
デオノーラの手の感触を味わった男が、背筋を震わせる。そして驚いた拍子にデオノーラの方を見やり、そこでこちらを見つめるデオノーラと視線を重ね合わせる。
男の眼差しがドラゴンに吸い寄せられる。何かを思い出したように苦笑し、デオノーラが熱く呟く。
「素敵だ」
熱のこもった吐息が男の前髪を揺らす。
デオノーラが顔を近づける。
「私は、素敵な貴様としたい」
男も熱に浮かされるように、自分から顔を近づけていく。
男のこぼす息がデオノーラの唇を濡らす。
「貴様がいい」
「あ――」
「貴様に、私を受け止めてほしい」
お願いだ。
女王の心からの願い。
男が息を呑む。
二人の距離
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