娘ができました

 ヘイゼル・ランドリオン。愛称ヘイズ。
 六十七歳。独身。
 かつてはとある町で武道場を開き、師として護身術を中心に教えていた。教え子たちは皆彼を敬愛し、町の人達も彼を尊敬していた。
 しかし道場を開いてから三十余年後、彼は高齢を理由に師範の座から降りることを決めた。二年前のことである。弟子たちは彼の引退を惜しんだが、最後はそれを尊重した。
 ヘイズは教え子の中から最も優れた者を後継者にし、彼に武道場を任せることにした。二代目師範は謹んでその名を拝命し、ヘイズに代わってここを守ることを誓った。
 これで後顧の憂いは無くなった。自由の身となったヘイズは町から離れ、小さな山の中に小さな小屋を建てた。彼はそこで静かに暮らし、第二の人生を送ろうと決心したのである。齢十になる前から武の道にあったヘイズは、戦いに倦んでいた節があった。
 それから二年経つ。ヘイズは今も変わらず、穏やかな世界に身を浸らせていた。
 
「ふう……」

 昼食を摂り終えた午後のひととき。家の外に木拵えの椅子を置き、深く腰掛ける。爽やかな風が頬を撫で、草木の揺れる音が耳をくすぐる。ヘイズが目を閉じ、体で自然を感じる。
 静かだ。心地良い。口の端が自然と緩む。思うままに食べ、思うままに憩う。至福だ。
 肩の荷の降りた老人は、こうして緩やかな余生を。
 
「ヘイゼル・ランドリオン!」

 味わえなかった。椅子に腰かけるヘイズに、鋭い声が突き刺さる。ヘイズは少し眉間に皺を寄せ、目を開けて声のする方を見る。
 声の主は二、三メートル先にいた。一人の少女が腕を組み、キッとヘイズを睨みつけていた。
 
「勝負よ! 今から私と勝負なさい!」

 少女が良く通る声で言い放つ。ヘイズが少女の全身を視界に収める。
 腰から上は普通の人間。腰から下は真白の蛇。髪の毛も蛇になっており、それぞれが独立した自我を持つように好き勝手蠢いていた。どう見ても人間では無い。
 ヘイズは驚かなかった。毎日のようにやって来る闖入者の存在に、ただため息をつくだけだった。
 その顔は微笑みを湛えていた。
 
「さあ人間! 構えなさい! 今日こそ私が勝ってやるんだから!」

 先方の反応を待たず、下半身が蛇になった少女が構えを取る。ヘイズも抵抗せず、無言で椅子から立ち上がって同じように構える。
 穏やかな空気が一瞬で張り詰める。冷たい風が二人の髪を揺らし、敵意を感じ取った小鳥たちが一斉に空へ逃げ出す。
 
「子蛇よ。腕は磨いてきたろうな?」

 不敵に笑ってヘイズが問う。子蛇扱いされた半人半蛇の少女が、見るからに不機嫌そうな顔をして言い返す。
 
「見てなさい。昨日までの私とは違うんだから!」
「よろしい」

 自信満々な蛇少女の言葉に、ヘイズが実に楽しげな顔で頷く。なんだかんだで強者と手合わせが出来ることに、彼は心の高揚を自覚していた。
 求道者はどこまでいっても求道者だった。
 
 
 
 
 メドゥーサのリリオンがヘイズのことを知ったのは、今から一年ほど前のことだった。とある町にすごく強い人間がいる。洞窟で一人退屈に過ごしていたリリオンは、ある時小耳に挟んだその噂話に、ふと興味を持った。
 武道に思い入れがあったわけでも、強い奴と戦いたいわけでもない。ただ暇潰しに、ちょっとその人間を見てみよう。リリオンを動かしたのは、本当に小さな好奇心だった。
 町にはすんなり入れた。道場にもすんなり行けた。見学の許可も二つ返事で得られた。元々その町は親魔物派の場所だったので、邪険に扱われる道理は最初からなかった。
 リリオンは大した障害もなく、簡単にヘイズと出会えた。
 
「喝ッ!」

 リリオンが見学を始めた時、噂の強者は教え子の一人と組み手をしていた。そして彼は今まさに、教え子を正拳突きで吹き飛ばしたところだった。
 教え子が壁に激突する。同時にインパクトの起点たる拳から衝撃が迸る。
 道場に風が吹きすさぶ。凄まじい圧がリリオンを揺らす。
 
「……ッ」

 その時胸に芽生えた感情を、リリオンは今も上手く表現できなかった。しかし気づいた時には、彼女はヘイズを熱のこもった視線で見つめていた。
 一目惚れだった。歳も外見も関係ない。老境に入りつつあった男の力強さ、立ち姿、深奥から滾る魂の波動に、彼女は心を射抜かれていた。
 
「おお!」
「さすが師範!」
「なんという技の冴え!」

 リリオンの周りで他の弟子たちがざわめく。その内の数人が吹き飛ばされた仲間の元に向かい、彼を助け起こす。その中で老いたヘイズがゆっくり構えを解く。周りの喧騒に流されない、確固たる力強さを持った動きだった。
 まさに不動の立ち姿。リリオンはますます惹かれた。もっとあの人のことが知りたい。リリオンはヘイズに熱い眼差しを向けた。周りの騒がしさな
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