僕のお姉ちゃん

 そもそもの発端は、ディン・ボートマンの些細な失言だった。
 
「お姉ちゃん、その薬草取って」
「はい、ただちに――」

 少年魔術師の言葉が、その場の空気を凍りつかせる。彼の台詞を受けたウンディーネのスイは、目を丸くして己のマスターを見つめた。
 その眼差しが、ディンを正気に引き戻す。
 
「えっ、あ……」

 相手は姉ではない。自分が契約した精霊だ。齢十を迎えたばかりの年若い魔術師は、己の失態を大いに恥じた。
 
「ごっ、ごめん! うっかりしてた! 変な意味は無いんだ、本当にごめん!」

 ディンが大慌てで弁解する。スイは薬草を手に取ったまま、尚も驚きの表情を見せていたが、やがて表情を緩めてにこやかに微笑んだ。
 
「――いえ、問題ありません。お気になさらず」

 そう言いながら、スイがディンの元へ向かう。そして彼に指示された薬草を手渡し、ディンがそれを受けとる。
 彼の手はまだ震えていた。視線は泳ぎ、額には脂汗がうっすら滲み出ていた。
 スイが彼の異変に気付く。マスターの身を案じた精霊が優しく声をかける。
 
「大丈夫ですか?」
「へあっ!?」

 いきなり問われた魔術師が大声で叫ぶ。その後すぐに我に返り、スイを見ながら言葉を返す。
 
「いや!? 平気! 全然平気だよ!?」

 明らかに動揺している。全く平気には見えない。そこまで驚かなくてもいいのに。ディンの初心な反応を見たスイは当惑気味にそう思いながら、そっと彼の手を握った。
 
「落ち着いてください、マスター。私は気分を害したりはしていませんから」
「ほ、本当?」

 少年が覗き込むようにスイを見る。スイは「はい」と頷き、続けて彼に言った。
 
「むしろ嬉しかったです。私のことをそう呼んでくださって」
「どうして?」
「マスターが私を姉と呼んでしまったのは、それだけ私のことを近くに感じていたからなのですよね?」
「あ」

 ディンがハッとする。彼を見ながらスイがにっこり笑う。
 
「マスターから大切に思われていることを実感できて、スイは幸せでございます」

 それはウンディーネの、心からの言葉だった。落ち着きを取り戻したディンは、今度は気恥ずかしさで顔を真っ赤にした。
 
「それは、その……」

 事実だ。しかし実際に言葉にされると、やはり恥ずかしい。ディンは魔術師ではあったが、同時にまだ子供であった。
 そんな子供に、スイが追い打ちをかける。
 
「それに私は、本当にあなたの姉になってもいいくらいですよ?」
「えっ」

 ディンが鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。彼の手を取ったまま、スイがにこやかに提案する。
 
「せっかくですしどうでしょう? お姉ちゃん、体験してみますか?」
「……」

 スイの顔をじっと見つめながら、ディンが生唾を飲み込む。
 ウンディーネはそれ以上何も言わず、ただ微笑むばかりだった。
 
 
 
 
 翌日。午後七時。
 
「マスター。もう朝ですよ。起きてください」

 いつものように先に起床したスイが、いつものように隣で寝るディンを起こしにかかる。それはディンが師匠から譲り受けたこの家で暮らす二人の、いつもの朝の光景である。
 しかし今日は少し違った。
 
「お姉ちゃんが起こしてますよー? 起きてくださーい?」

 甘えるような声で、スイがディンに声をかける。同時に彼の肩に手を添え、そっと揺する。
 有言実行。昨日の提案を、スイは実行しているのである。なおそれはディンも把握済みのことだった。
 
「お姉ちゃんのお願い、聞いてくださーい? マスター? 起きてくださーい?」

 いつもはもっと毅然な――「しもべ」らしい口調で起こしていた。だが今日のスイは、明らかにその声に感情を含めていた。
 弟大好きゆるふわおっとり系。それがスイの設定したお姉ちゃんムーブである。何をもってゆるふわとすべきかはスイ自身まだ掴みかねていたが、とにかく本人は「そういう姉」で行こうと決めていた。
 
「マスター? マースーター?」

 だがディンのことは、頑なにマスターと呼んだ。姉だからと言って、決して呼び捨てにはしなかった。彼女の真面目さが発露した結果である。
 そんなこんなで、スイは「姉らしく」ディンを起こそうとした。そしてそんな彼女に応えるように、ディンもまたその眼をゆっくり開けた。
 
「ううん……」

 完全に開き、数度瞬きしてから、両手で目を擦る。その後むくりと上体を起こし、気怠げな声でスイに挨拶する。
 
「おはよう、お姉ちゃん……」

 昨日交わした約束通りに動く。ディンも律儀だった。否、マスターとしては当然の責務である。
 それから数秒かけて、ディンも完全に覚醒する。そして覚醒後、ディンが改めてスイの方を向く。
 
「どうしました?」

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