仕事柄、阿鼻叫喚には慣れている筈だった。
天之宮を出る前も。
天之宮を出てからも。
まるで己が影法師を背負うように、慣れている筈だった。
しかし、この国の至る所で響き渡っていた嬌声と間欠泉の様に噴き出す邪気は、今宵の退魔師としての経験を遥かに凌駕していた。
ともすれば視界は膠(にかわ)のように濃密な邪気で閉ざされ、必死に振り払えばその都度、隣にいた仲間の姿が消え、或いは眼前で邪に堕とされた。
修行で鍛えていたはずの肺が休みを求めてうねり、ねっとりとした汗が拭っても拭っても目を瞬かせる。
そうして無限とも思われる追走、遁走、疾走をあてどなくあてどなく繰り返した末――
「……ここやな」
今宵は魔力の根源とみられる城に到達した。
宗教国家「レスカティエ教国」。
かつては教団の勝利と栄光の象徴であった筈の城は、今や魔王の旗が翻る修羅場と化していた。
窓の一つ一つがまるで魔物の目のように今宵を睥睨し、愚か者を待ち受けるように城門は口を開けている。
そこには、今宵を除いて他に何も居なかった。
只の人間は勿論、共に突入した仕事仲間も、街に跋扈する魔物の類も、誰も無かった。
その場所にいてはならないと、この世の誰もが理解しているかのようだった。
しかし今宵は悠然と死地へ赴く。
下されたままになっている橋の下に流れるのは濁り切った川で、そこに彼女の姿が映ることはない。
二度と戻らぬことを仄かに、しかし確かに感じ取りながら、今宵は橋を渡り切る。
静寂が横たわっていた城門付近とは異なり、王城内部では再び嬌声の渦が今宵の耳を塞いだ。
触手、そして、触手に寄生された女たちが、侵入者を眷属に引き込もうと怒涛の如く追い立てる。
歯を食い縛りながら加護の印を結び、祝詞を己が盾として、今宵は邪の中心へとひた走る。
そして王座の間に辿り着き中を窺った瞬間、今宵は総毛立つほどの魔力の奔流を受け、思わず後ずさっていた。
「ようこそ…やっと来てくれたのね♪」
実に待ちわびたような風に、その淫魔は言った。
白い翼と尾の淫魔。これは今宵が覚え聞く、大陸における最高位の淫魔の象徴。
女性である自分さえも目を離せなくなるような肢体は惜しげも無く晒され、漆黒の蔦の様な衣は局部のみを最低限隠すだけ。
肌は桜色に火照り、体中を走る紋様が肉体の曲線美を殊更際立たせている。
何より特徴的なのは身体の至る所で輝く赤色。
血で染めた太陽の如きそれは、疲れ果てた今宵の霊感へ甘美な泥の様に纏わり付いてくる。
そしてその宝玉に劣らず赤い眼から視線が送られ、今宵の身体を舐め回す。
「この国に入った者の中で、ひとりだけ異質で、しかも強力な魔力を持った者が居たみたいだったけれど……貴女だったのね♪♪」
今宵の鼓膜はその声を確かに震わせた。
しかし彼女はそれをうまく受け取ることが出来なかった。
その白い翼の淫魔もさることながら、室内の王座と思われる場所で絡み合う魔物達の瘴気に、今宵は精神を引き寄せられてしまっていた。
「な……なんや、これ」
知れず漏れた問い掛けは、誰に聞こえることも無く、眼前の肉塊の放つ不協和音にかき消される。
鳥の羽、獣の脚、大蛇の尾、幾多の触椀。
それら全てが肉体の綴れ織りから無造作に突き出しており、一体いくつの生命体が寄り集まっているのか俄かには判断出来かねるほどだ。
『それら全てを特徴とする個体の淫魔』と言われても否定できない程に妖気は一体化しており、その事実が今宵を猶更困惑させる。
かのように今宵が呆然と立ち尽くす間にも、眼前の淫魔の塊は様々に形態を変え、それ自体が不定形の巨大な魔であるかのよう。
絶え間なく発散されている嬌声や喘ぎは、快楽に溺れながらどこか切なげなものも混じっており、外観とのズレが今宵の精神を揺さぶってくる。
しかし、その千変万化とも呼べる塊に、中心と呼べるものが存在することに、淫蕩に沸き始めた意識の中で今宵は気付く。
(オトコの、淫魔?)
女怪たちの位置が入れ替わる度、争うように場所取りが行われていることに今宵は気付いた。
見ればそこにある肉体は表面に晒された淫魔の柔らかそうなそれとは異なり、精悍な様子が窺い知れる。
そして、彼女は初めて、その剛直を目の当たりにした。
握りしめた法衣の裾が、一際深い皺を刻む。
「あらぁ? 少し油断してたみたい…」
目覚めは唐突だった。意識をほんのわずかな時間だが奪われていたらしい。
慌てて状況を確認すれば、少女を解き放った淫魔の美しい腕が、まるで火に触れたかのように焼け爛れていた。禊を受けた衣に反応したのであろう。
その声に僅かながら正気を取り戻し、今宵は身構える。
「フフフ……本当にたのしみだわぁ……♪ 貴女みたいに素養の有る者がコチラ側に来るなんて……♪♪」
「だ、誰がっ!」
己を奮い立たせるように叫ぶと、今宵は
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