落武者が嫁になる時

 「主殿」

 耳に響く凛とした声に武者小路 宗龍(むしゃのこうじ そうりゅう)は深い眠りから目を覚ました。

 「む…ぐぐ」

 未だに眠る頭と重たい体を何とか動かし、宗龍は声の方へと顔を向けた。
 そこにいるのはいつも通りの彼女だ。
 生気の感じられない青白い肌、衣服と呼べる物は血のように紅い袴と胸を隠すサラシのみであり彼女の引き締まった身体を惜しげもなく晒す。右腕は人間の腕ではなく、骨の腕と化している上に鬼のような頭蓋骨をアクセサリーのように身にまとっている。しかし、それが恐ろしいというわけではなく彼女の魅力を引き立てる。
 彼女、静流(しずる)は人間ではなく、落武者と呼ばれる魔物娘であった。無念の内に命を落とした武士の屍に魔力が宿り生まれ変わった、海の向こうの言葉を使えば“あんでっど”と呼ばれる存在、それが落武者である。
 彼女達は死してなお武士道を貫き、主と認めた男性に忠を尽くす。一度死した落武者は決して死ぬ事の無い不死の戦士だが、近年のジパングでは戦らしい戦は無く、彼女達が戦場へ赴く事は少なくなった。代わりに治安を守る役人のような職に付く者が多く、成果は上々らしい。
 中には静流のように主の家で献身的に仕える落武者も少なくはない。
 静流は正座しながら、無表情で宗龍の顔を見下ろしてくる。もともと表情の少ない娘だ。何を考えているのか分からないが、少なくとも何か大事があったわけではないと分かる。
 いつも通りの平穏な朝だ。

 「あぁ…すまんな、毎朝起こしてもらって…」

 眠った喉から出る声は何とも耳障りだった。こんな声は他人には聞かせられない。
 静流はそんな事は気にしていないという風にスッと身を引いた。
 宗龍は体を起こし、ググッと体を伸ばした。眠っていた体が目覚めていくのが分かる。欠伸をすれば脳へ酸素が送り込まれ、霞んでいた意識が鮮明になっていく。
 宗龍は寺子屋で子ども達に学問を教えている。幼き頃に父に言われた「いずれ刀よりも筆が必要とされる時代が訪れる」という言葉を胸に今日まで学問に身を費やしてきた。
 彼が教えるのは魔物娘と人間の関係性だった。魔王の代替わり。それにより、魔物は人類の天敵から人類の友人、大切な家族ともいえる存在になっている。だからと言ってすぐに双方の溝が埋まるわけではない。お互いにまだ理解していない部分だって少なからずある。海の向こうの大陸ではそれが顕著だそうだ。その点、ジパングでは昔から妖怪と呼ばれる魔物娘とある程度の付き合いはしていた。
 これからは人間と魔物娘が手を取り合い、時代を築いていくだろう。そのためにもお互いがお互いを理解しなくてはならない。そのための力になれれば良いと宗龍は考えていた。
 そんな事を考えながら木枠の窓を見れば、朝日が優しく宗龍の顔を撫でた。
 気持ちの良い朝。そんな言葉が似合う朝だった。

 「おはようございます。主殿」

 「あぁ、おはよう」

 宗龍が完全に目を覚ましたのを確認すると、静流は深々と頭を下げた。
 そこまで硬くならなくても良いんだが…
 宗龍はそう思ったが、静流にとってはこれが自然体なのだろう。ならば、無理に止めさせる必要もない。

 「主殿、こちらを」

 静流は頭を上げると、傍らに置いてある小さな風呂敷を宗龍の前に差し出した。

 「?…これは?」

 風呂敷を受け取った宗龍は首を傾げた。その瞬間、静流の表情が曇ったように見えた。しかし、すぐにいつもの感情の無い表情へ戻ると口を開く。

 「主殿の御朝食となります」

 「……あ?」

 「…主殿の朝ごはんです」

 言い方を変えなくても意味は分かる。
 なんだか不穏な空気が漂うが、宗龍は風呂敷を開けた。
 中には二つの握り飯と沢庵が三切れ入っていた。

 「……」

 「お言葉ですが、主殿。至急お出かけの準備をした方がよろしいかと」

 「…今、何時だ?」

 「予定の時刻を大幅に過ぎております」

 静流の言葉に宗龍は飛び上がった。
 無表情というのも考えものだ。何か起こっても表情に出ないのでは分かりようがない。
 慌てて着替え、荷物と朝食を持つ。途中顔を洗うのも忘れなかった。無表情で黙々と準備を手伝う静流が恨めしかったが、元はと言えば起きる事が出来なかった自分が悪い。
 それに、静流がいなければさらに寝ていただろう。

 「行ってくるッ!」

 「いってらっしゃいませ」

 握り飯をほおばりながら、慌てて家を飛び出す宗龍を静流は深々と頭を下げて送った。
 ふと宗龍は空を見ると、向こうに黒い雲が広がっていくのが目に映った。嫌な予感が胸をよぎった。





 嫌な予感は的中した。
 あんなに爽やかだった空はすぐに鉛色の重たい空へと変わり、黒い雨が降り始めた。何処か遠くで雷鳴が轟いてい
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