大甘百足

古びた三階建てのアパート。
一階は大家さんが営んでいるお米屋さんと、居酒屋。
その前を通り過ぎ、横から裏手に回ると各部屋の郵便受けと上へ登る階段がある。
ごくごく一般的な階段を登り、二階に二部屋しかない内の右側にある鉄の扉。
左手に持つ鞄のサイドポケットから鍵を取り出し、ドアノブに空いている鍵穴へと差し込み、右側へ180度回転する。

「カシャン」

と金属の動く音がして、扉の鍵が開いた。
鍵を抜いた右手で扉を開き、玄関に入ってすぐの棚にそのまま鍵を置く。
こうしておけば次に外出する時に鍵を探す必要はない。

『ただいまー』

目の前に広がる暗闇に向かって声を出した。
無論、闇から声が返ってくるわけもなくシーンとした静寂がそこにはあった。



『おかえりなさい』

つい二日前まで。

2kの間取りである我が家の台所とその先の部屋を隔てているガラス戸が横にスライドし、奥から一人の女性が出迎えてくれる。
『ただいま帰りました』
その女性に改めて声を掛ける。
『はい、おかえりなさい。今日も寒かったでしょ?今、夕飯の支度するから着替えて手洗いうがいをして待っててね』
目の前の女性は律儀にもう一度「おかえりなさい」を言うと、ガスコンロの火を点けて鍋の中身を温め始める。
僕はその横を通り、ガラス戸の奥の部屋へ足を進める。
そこは押入れにクローゼットがある部屋で、その他にも自分で持ち込んだ本棚やカラーボックスが並んでいる。

仕事に着ていく上下のスーツと防寒用のコート、後はマフラーに鞄。
それらを仕舞い、ネクタイを外す。
下は楽な部屋着に着替え、上はワイシャツのまま。
その足でまた台所に戻り、古びた年代物の湯沸かし器のスイッチを入れてお湯を出し、手を洗った後にうがいをする。

『ご飯よそうの手伝いますよ』
掛けてあるハンドタオルで手を拭きながら、料理を温めている女性へ僕は声を掛けた。
『それじゃあ、お願いしようかな』
その人はそう言うと、鍋の中身を混ぜていたお玉を置くと、茶碗とシャモジを僕に手渡す。
それを僕は受け取ると、炊飯器の前に行って蓋を開ける。

途端に湯気が立ち上り、炊き立てのお米の匂いが鼻腔をくすぐる。
『田舎の叔母さんが今年の新米を送ってくれたの。今年のは特に美味しいから、二人で食べてねって』
うちの田舎にある母方の実家は農家をしていて、毎年この季節になるとその年の新米が送られてくる。
僕も実家にいた時は春夏秋と農業の手伝いをしていた。休みの日限定ではあったが。

『じゃあ、今夜おじいちゃんに電話してお礼言っときます』
祖父は孫である僕のことをとても可愛がってくれて、こうして何か頂き物があった時は出来る限り連絡を入れるようにしている。
『うん、そうだね。私も何年もおじいちゃんに会ってないし、少しお話したいな』
そんな他愛もない会話をしている内に夕飯の準備は終わり、先ほど着替えた部屋から更にもう一つ奥へ進んだ部屋に二人で移動する。
そこには何年も使っていない大型の液晶テレビとパソコン、それに漫画の入った本棚にゲーム、あとはちゃぶ台と畳まれた布団という、正に一人暮らしの男の家という様相だった。


目の前で行儀良く正座をして手を合わせ、「いただきます」を言っている女性を除いて。

『いただきます』
僕も目の前の女性に習い、手を合わせて「いただきます」をする。
目の前の女性は右手で箸、左手にお茶碗を持つと、夕食を口に運び始めた。
部屋に置いてある液晶テレビの電源は入っていない。
もう5年近く一人暮らしをしていた影響で、テレビを見る習慣は完全になくなった。
仕事帰りにいつものお弁当屋さんでいつものお弁当を買い、それを一人で食べる生活。
しかし、今は違う。
自分以外の同居人、しかも女性。

『茜さん、今日のお仕事はどうでしたか?』
出された食事を口に運びながら、僕は目の前の女性に声を掛ける。
『今日は編集さんとクライアントさんを含めて進行確認の打ち合わせがあっただけで、あとはずっと家で仕事してたから』

目の前の女性、茜さんの仕事は絵本作家。
しかも、子ども向けと言うよりは大人向けの絵本作家だった。
大人向けと言っても別に如何わしいという訳ではなく、疲れた大人が心の潤いを求めて買い求めるような内容らしい。
・・・正直、僕には良く分からない。
なぜ、本を読んで心が潤うのか。
しかし、それを目の前の茜さんに言うのはどう考えても失礼。
何たって、茜さんはそれを仕事としているのだから。

『あきら君は?』
次は自分が聞く番とばかりに、茜さんは僕に質問する。
『僕の方も、午前中はHPの更新作業。午後は広告代理店と新しいカタログの打ち合わせでした』
その言葉に茜さんは「お互い大変だね」なんて言っている。
僕の仕事は自社のWEB・広報担当の部署。

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