別れの歌
「さよなら」
私は振り返らなくてはいけない。何があっても。振り返ったその先にある『もの』だけには返事をしなければならない。最期の一時くらいは。最期の別れの一時だけには……。
無情にも私の足は前へと進む。踵を返し後戻りをする素振りはない。機械的に動かされる足。まるで自分の意志とは無関係になってしまったのではないだろうか。首は頑なに前方を直視し続ける。私に別れを、哀しみを感じさせる時間は生憎準備されていないようだ。機械的に作動する私の身体。しかし口だけは、口だけは自分の意志に従った。
「さよなら、さよなら瑠璃……。私の……」
私と彼の間柄は奇妙なものだった。それは、彼自身が望んだ結果であり、同時に私自身が望んだ結果だった。此処ではそれが認められる。此処でだけはそれが認められた。
しかし、仕方がないこと。いずれこの日が来ることは解っていた。理解はしていた、けれど、心はそれを認めなかった。
この歪んだ心が引き起こした悲劇だというのならば、私はこんな愚かなことには手を染めなかったことでしょう。
これは私に対する罰なのかもしれない。どんな罰も受ける覚悟はできていた。いや、できていたつもりでしかなかったのかもしれない。
第一章 さよなら
■□■□■□
「さよなら」
使い古した言葉。過去に何度もこの言葉を使ってきた。それは事実。そして人を傷つけ、自分自身も傷ついてきた。これも事実。
「……わたしも、なの?」
彼女が選んだ日付。聖夜祭で賑わう街並み。綺麗なイルミネーションツリー。様々なクリスマスソング。恋を歌った詩。その中で肩を寄せ合う恋人達。生まれてくる恋と、死んでゆく恋。歓喜に包まれる者と、哀しみに浸るもの。彼女は後者だった。
「何故……。やっぱり、わたしもなの?」
「ごめん。……ごめん」
踵を返したまま答える。
「やっぱり、わたしもなのね……」
哀しい声が後ろから聞こえる。そんな声で囁かないで、僕が振り返ってしまう。振り返ってはいけない。振り返ってはならない。これでいい。これでいいのさ。お互いが一番傷つかないで済む……これでいい、のさ。
別に好きな人がいる訳でもない。しかし何故か好意を寄せ切れない。僕には他に好きな人がいる。誰かは思い出せない。でも、確かにいる。いた、筈。
大切な人がいた筈。そうとしか言い様が無い。それが誰だか分からない。はっきりとしない。意識と無意識の狭間にぼんやりと覚えている。
もしかしたら此所には、この世界にはいないのかもしれない。
でも、確かにいた。
誰かがいた。
「さよなら」
頭の中で反芻する言葉。好意を寄せてくれた人に対して捧げた言葉。そのこと、そのことしか僕の頭にはなかった。それしかなかったのだ。そんなぼんやりした頭だったからだろうか、それとも、それが僕の運命だったのか、それは定かではない。しかし、これだけは定かだ。この日、僕は死んだ。その事実だけは変わらない。
死ぬと言うことは思いのほかあっけない。ほんのちょっとしたことで簡単に生は失われる。ちょっと打ち所が悪かっただけ。ほんの少し当たりどころがずれていたならば、こういうことにはならなかったでしょう。
そう、運が悪かっただけ。最悪に悪かっただけ。
しかし、運が悪くてよかったと思ってしまった。何故か、思ってしまった……。
最期に見えたのは、十二月の満月と輝けるイルミネーション。最期に聞いたのは安っぽい天使のラッパと午前零時を告げる時計台の鐘の音。あいつの悲鳴。
不思議と痛みはなかった。しかし、痛みをこえた何かを感じていた。口の中が血の味で満たされる。苦い鉄の味。衝撃が身体に走ると共にぐらりと世界が揺れ、僕の身体は宙に舞った。ぐしゃりというアスファルトからの鈍い着地音が耳にかろうじて届いた。
嗚呼、あいつの声が聞こえる。そんな声で泣かないでおくれ。振り返ってしまう。僕は振り返ってしまう。
あいつはもう僕がいない僕を必死に抱き留める。血が白いブラウスにシミを作る。誰がどう見ても助からないことが分かる。それはあいつも同じ。あいつもそれを理解している。でも、認めない。ただそれだけ。僕を支点に周囲がざわめいているにもかかわらず、この場で唯一、僕だけが第三者で、ただ上から眺めているだけであった。
気がつくとよく分からない場所にいた。初めて見る景色。見たことも想像したこともない景色。足下に広がる青。足下を流れる雲。辺り一面に並べられたら岩。きちんと綺麗に整列しているそれは、一つ一つの形こそ歪だが、その歪さまでが計算されているかのような、全体的な集合的美しさがあった。足下の青さが目に沁みる。
「嗚呼、懐かしいな」
不意に言葉が零れた。
此処へは初めて来た
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