僕が蟻たちの巣にお世話になってから五日目。ついに杖を突きながらも、一人で歩くこ
とが出来るようになった。明日にはほぼ治るだろう。本当に魔法の薬様々だ。
しかし、今日は朝からどうも騒がしい。朝の食事を持ってきてくれたトーコは毎回して
いる僕への誘惑をせずにさっさと部屋を出て行ってしまうし、外では蟻の走る音がひっき
りなしに聞こえてくる。何かあったのだろうか。
根性で芋を胃袋へ収め、外へ出て誰かに事情を聞いてみようと半分立ち上がりかけたそ
の時。一人の蟻が、部屋へと滑り込むようにして入ってきた。
横一直線にカットされた、長めのおかっぱ髪の蟻だ。前髪は特に長く、目を半分ほど覆
い隠している。僕に背を向けて扉を閉めると、へたり込むように甲殻の足を畳んでその場
に座り込んだ。見たことがない子だ。
「君は……誰? 初めて見る顔だね」
なるべく気さくな雰囲気を心がけたつもりだったが、僕の声を聞くと彼女は文字通り飛び
上がってこちらを振り向いた。目元はよく見えないが、焦りと怯えの雰囲気が感じ取れる。
彼女は頭だけを前に伸ばして僕を凝視し、それから右手で前髪を少し上げて改めて僕を
見た。少しの間を置いて、安堵のため息を洩らす。
「わ、わた、私は、ありす、です。あ、あなた、レイ、君?」
彼女の言葉は辿々しく間を空けながらのものだったが、それでも聞き取れないほどではな
い。
「うん、そうだよ。僕がレイ。所で僕は数日前からここにいるんだけど……えっと、アリ
スとは初めてだよね」
そう言って自己紹介ついでに彼女のことを観察するが、どうにも違和感を感じる。しかし
それを上手く形に出来ず、ただもやもやするだけだ。
「あ、あの、私、ちょっと、出張、してました。今朝、やっと、戻った、のです」
「へー、そうなんだ」
アリスは言うやいなや、トコトコとこちらへ歩み寄って僕の横へ座り込んだ。定位置に座
っている僕に上半身を寄せると、ただにこにこと笑っている。
「うふふ、レイ君……かわいい」
「あ、そ、そう。それはどうも」
なんか違う! 具体的な言葉には出来ないけど、何かが他の蟻たちと違う!
表情は平静を装いつつも内心違和感に戸惑っていると、アリスが右手を僕の太股へと這
わせた。つつーっと指を滑らせ、僕の股間を撫でる。
「ね、レイ君……」
「え、いや、ア、アリス? 君は仕事しなくていいの……? 他の皆は朝から仕事してる
けど」
「私は、さ、昨晩も、歩き詰め、でした、から……疲れて、むらむら、コッツンコ?」
あ、なんかここはそれっぽい。
意外にも積極的なアリスに流されるままそれっぽいムードになりかけていたが、それも
突然鳴り響くドアのノック音でかき消された。ノックの直後、息も荒く飛び込んでくる一
人の蟻。いつも眠そうな半眼とセミロングの、ココノだ。
「レイ君、大丈夫?」
「えっ、大丈夫って、何が?」
飛び込んでくるなりのココノの一言に、戸惑いを隠せない。しかし、ココノは僕より先に
アリスのことが気になったようだった。
「お前、誰?」
えっ?
僕の疑問が口に出るより先に、アリスが勢いよく返事をした。
「私のこと忘れちゃったの? ちょっと、ひどいです」
「……えっと、ナナ?」
「ああよかった、ちゃんと分かってくれた」
「なんだナナか。雰囲気変わったから気づかなかった。レイ君の監視をしてるんだね。こ
のまま続けてて」
うん?
「えっと、その、ココノ?」
「ごめんレイ君。今巣の中にアントアラクネが入ってきたみたいで、巣中大騒ぎなんだ。
あれにばれたら困るから、暫くこの部屋でじっとしていてね。それじゃ私はこれで」
僕の言葉もろくに聞く余裕が無いようで、あっという間にココノは部屋を出て行った。
ばっ。勢いよく横のアリスへ顔を向ける。全く同じタイミングで、彼女も僕から顔をそ
らした。
「……」
「……」
部屋の中に、気まずい沈黙が漂う。僕はアリスの頭から視線を下へずらして、彼女の服、
彼女の他の蟻たちとは違う意外なほどに豊かな胸の膨らみ、それから彼女の甲殻の足に目
を向けた。
そこには、縮こまるようにして畳まれた短い四対目の足。ジャイアントアントには無く
て、アラクネにはあるもの。違和感の正体。
「えーっと……アリス?」
恐る恐るアリスに呼びかけると、彼女は素早くこちらへ振り向いて僕の首に両手を絡めた。
至近距離で見た彼女の顔。前髪の向こう、彼女の額に、アラクネ特有とおぼしき複眼が見
え隠れしている。そして彼女の唇が眼前に迫り……激しいノックの音ですぐに手を離した。
「レイ君! 大丈夫?」
やって来たのはナナだ。やはり彼女も息が荒く、そして僕より先にアリスに目が行ったよ
うだった。
「あのさ、ナナ……」
「あなた、誰ですか?」
「ココノだよ、妹の顔を忘れたの……?」
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