からからと、ドアベルの乾いた金属音が耳朶を打ったのは、これから帰ってくるであろうランペルのご機嫌取りに作ったピーチパイがちょうど焼きあがった頃だった。
自分のシャツから香るシナモンの甘いにおいに出ていいものか悩んでいると、一拍置いて控えめにもう一度からからとドアベル音が響いてきた
急ぎの来客だろうか、ランペルがいないことを伝える程度なら大丈夫だろう。
そう判断してエプロンを肩から外した。
「いま行きますよー」
エプロンを畳んで玄関へと向かう。
彼女にも自宅を訪ねて来るような友人がいたんだなぁと感心しつつ、ドアを開く。
「お待たせしました。ランペルなら不在ですが、どのようなご用件、で?」
そこにいたのは、喪服のように真っ黒な衣装をまとった女性だった。
血の気のない肌に、エルフのようにピンと立った長耳。
特長的なのは何よりも、目尻から頬にかけてくっきり伝う泣き痕だった。
直観的に、魔物だと分かった。
「……朝早くに、すいません。夫が、熱を出しております。どうか、どうか診て頂けないでしょうか……」
朝早く……?
真上に昇る月を一瞥して、どうしたものか首をひねる。
察するに彼女はランペルを訪ねてきたのだろうが、生憎と彼女は不在だ。
というか、診療所みたいなことしてたんだな、あの娘。
勝手に自分が判断していいものかと悩んでいるところに、女性が頭を深く下げる。
「なにとぞ、お願い致します……。とても、苦しそうで、辛そうで……どうか……」
今にも泣きだしそうな声色はもはや切実すぎて逆に脅迫である。
……まぁ、緊急判断ということで、様子を見させてもらおう。
愛する旦那が寝込んでいるなんて、妻にとっては不安で仕方ないだろう。
「……私で良ければ。旦那様はご自宅ですか?」
「はい……。ですが、魔法でこちらまで喚べます……」
「承知しました、では中のベッドまでお願いします」
結論から言うと彼女の旦那さんは重めではあるが、至って普通の風邪の症状だった。
身体があまり強い方ではないだろう、苦しそうに喘ぐ青年に少し考える。
果たして本当に風邪であっているのか。
何せランペルの言うとおりであれば、僕は魔物のいなかった土地の人間だ。
魔界ともなると特殊な病気である可能性もあり、僕の常識が通じない可能性も有る。
ちらりと女性の方を見ると、不安げに旦那さんの額に手を当てて、静かに泣いていた。
「……これ、旦那様が起きたら飲ませてあげて下さい」
とはいえ、何もしないというのはあり得ない。
彼女が旦那さんを喚んでくる間に、備蓄の薬草を幾らか煎じた薬瓶を3つ渡す。
「平たく言うと旦那様は少し重めの風邪を患ってます。この薬には解熱と鎮痛の効能がありますので、少なくとも今よりは楽になるでしょう。副作用として、眠くなってしまいますので側にいてあげて下さい」
彼女は渡された薬瓶をじっと見つめ、こちらに顔を向けた。
「3つ、飲ませれば治りますか……?」
「残念ながら、風邪は薬では治りません。風邪を身体が治している間に、身体を楽にするためのお薬です。辛いときに飲むと楽になりますので、もしなくなったら追加で処方いたします」
なるべく彼女の目をまっすぐに見返して伝える。
出来ることはこれ以上ない、あとは誠実に話して不安を取り除くだけだ。
彼女はじっと僕を見つめて、おもむろに薬瓶のフタを開いた。
そしてその飲み口に、小さな唇を押し付けた。
「え」
いきなりの行動に困惑の声が漏れる。
コクコクと薬を口に注ぎ、薬瓶が空になる。そしてそのまま、寝込む青年に口づけした。
あ、口移しか。その行動の真意に気付くが、いや大胆だなと脳内で突っ込む。
なんとなく目を離せず十数秒、二人の唇が糸を引いて離れた。
あれ? ひょっとして舌入れてましたか?
「……少し、寝息が安らぎました……」
「良かったですね」
いやそんな即効性はないはずなんだが???
全力で困惑しつつ「良かったですね」と紡げた僕を誰か褒めてほしい。
本当に青年の顔色が少し良くなったのが理解できないが良くなったのなら良かったなぁ?
「……あなたは、ランペル先生の助手さんですか?」
「……そんなところです」
ランペル先生という言葉に猛烈な違和感を覚える。
詳しく説明するとややこしいからそういうことにしておこう。
僕の微妙な表情から何かを察したのか、彼女はくすりと微笑んだ。
「ありがとう、ございました……お代は……」
「また来たときに。悪いですが……、薬の相場分からないんです」
「ふふっ……、分かりました。このお礼は……いずれ……」
そう言って彼女の指先が光りだす。
虚空に形象的な文字を幾らか書くと、彼女と旦那さんの身体が光に包まれる。
痛々しい泣き痕とは対象的に、静かにろうそくが灯ったような
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