暖かいものに包まれていた。
雨音。ときおり弾ける薪。
甘い芳香。
体が熱を持っていた。熱は体の各所に瘧のように蟠り、苛んでいた。全身が気だるい。
体を軋ませ、寝返りを打つ。そこで、己の伏していることに気がついた。
目を開ける。天井。梁が見える。これほどしっかりとした建物は、久しく見ていない。
羽毛の布団が体を包んでいる。湿っていた。驚くほど大量の寝汗を掻いていたようだった。
頭が茫としている。薪が、パチンと弾けた。暖炉がある。その上に、ミルクを満たした鍋が載っていた。取って飲みたかったが、変に重い体は、中々動いてはくれなかった。まず、布団を退かさねばならなかった。
布団に手をかける。退かそうとした。突然、ズキリと腕に痛みが走った。筋肉が攣ったのだ。その痛みが、急速に頭を覚醒させる。
lt;ここは……?
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見覚えの無い部屋だった。自分が伏しているベッド。ミルクの入った鍋を載せた暖炉。天井から吊られた灯明皿。箪笥。子供が身を縮めてやっと通れるくらいの小さな窓。簡素だが、生活感のある一室。
窓を見た。雨が、しきりに打ち付けている。向こう側には、灰色の空が見て取れる。寒そうだ。何となく、そう思った。
悪寒がした。不意にのどの奥が疼く。それは、咳となって出て行こうとした。何度か、咳き込む。力の無い咳だった。しかし、喉の疼きはそれで絶えることは無かった。繰り返すたびに、体から力が抜けてゆくようだった。
ようやく咳が止まった頃、体を動かす体力はなくなっていた。
静かになった体で、考える。何故、ここに居るのだろうか。そしてこれまでは何をしていたのだろうか。そもそも、自分は何なのか。
混濁した意識の中で、ついに何も思いつくことは無かった。記憶と言う記憶が、すっかり無くなっていた。
がちゃり、と頭上でドアの開かれる音がする。部屋に誰かが入ってきたようだ。しかし、動かせない体に確認する術は無かった。辛うじて、目蓋を開くことが出来る程度だ。
部屋に入ってきたものは、なにをするより真っ先に自分を覗き込んできた。大きな乳房。牛の角。魔物、ホルスタウロスだった。つぶらな瞳が、心配そうに見て、それから驚いたようになった。
「あらあら、目が覚めたのね。一週間も眠り続けていたのよ」
彼女は言うと、暖炉の上からミルクの入った鍋を持ってきた。
「自分で飲める?」
肯定も、否定も出来ない。体が動かなかった。
「そう。飲ませてあげるからね」
ホルスタウロスは甲斐甲斐しかった。自らが一口飲んで温度を確認すると、細い漏斗を取り出して口に咥えさせてくれた。
「少しずつ、飲んでね」
鍋が、漏斗に傾けられる。ミルクは、本当に少しずつ、注がれていった。一口、二口としずかに嚥下してゆく。濃厚で、美味であった。なによりも、温かい。ありがたかった。
腹が、激しく鳴った。そこで初めて、自分が極めて空腹であることに気がつく。ホルスタウロスは、一週間眠っていたと言っていた。一週間ぶりの食事と言うわけだ。体が貪欲に栄養を吸収してゆくのを感じる。
飲んだ先から、力がわいてくるのが分かった。ミルクを少しずつしか注いでくれないのがもどかしかった。漏斗を吐き出すと、起き上がって鍋を奪い取った。さっきまで少しも動かなかった体が、この短時間で、かなり回復していた。
「あッ」
奪い取ったミルクを、咽ることも無く、音を立てて勢い良く流し込む。ホルスタウロスは驚いたが、すぐに優しい眼になった。
「お腹が空いていたのね。よしよし」
やがて、鍋が空になった。フウ、と一息つく。生き返った風情だった。
「ありがとう」
ホルスタウロスは笑った。母性に満ちた笑みであった。
沈黙があった。礼は言ったが、他に何も見つからない。記憶が無いのだ。ホルスタウロスはニコニコ笑うばかりである。
バチン、と一際大きな音を立てて薪が弾ける。意を決した。
「あなたは、私を知っているの?」
私、と言って、思い出したことがある。私とは、女性である。そして魔物ワーラビットである。それだけが、自分に関しての唯一の持ち物だった。
「私は、ワーラビット。名前は思い出せない。何も、思い出せないの。あなたが、私のことを知っているのなら、……ごめんなさい」
それが、今のワーラビットの全てであった。ホルスタウロスは優しい目を崩さず、ワーラビットを優しく抱きしめた。
「いいのよ。何か思い出すまで、ここに居るといいわ。私はイリーナ。何でも言って。」
それが純粋な優しさであると、ワーラビットには分かった。ワーラビットは、甘えることにした。ひいては無粋ながらも、訊かねばならぬ事があった。
「私の事について、何でもいい、知っていることがあれば、教えて欲しい」
*
十字架に、赤い夕日が射していた。
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