山中岩男

 暗い森であった。
 巨木に巻きついたヤドリギや、異様なまでに成長したシダが空を覆い、それらに及ばぬ苔や藻が地面に広がっていた。我こそ多くの陽光を得んと、天に向かっているかのようなその光景は、森全体に精気をかもし出すとともに、原生林のある意味動物的な面を表現していた。
 そうした生物の幾年月にも亘り行われてきた生存競争結果出来上がった豊饒の上を、ひとりの少女が歩いている。
 少女は沈鬱に背を縮めていた。獣道に沿って生えた巨大なシダがそれを覆い隠している。その様子は侵入者を威嚇しているようにも見えた。
 憔悴を身に纏った少女の姿は、長い旅を思わせた。正しく少女はこの森の者ではなかった。
 どれほどの距離を歩いてきたのだろうか。若草色の髪は埃にまみれ、肌理細やかな肌に刻まれた幾つもの小さな傷が痛々しい。
 少女は正しい人間の姿をしていなかった。頭に兎のような耳を生やし、下半身は兎のそれであった。そのどちらも、獣毛に覆われている。少女は魔物ワーラビットであった。
 人間をはるかに超越する体力を携えた魔物である彼女は、それでも危なげに獣道を歩く。人外とはいえ人間に劣らぬ頭脳を持つ彼女らも、儚い生き物の内の一種であった。
 彼女は自己を犠牲としてまで、ある人間の男に尽くそうとした魔物であった。彼女は男の幸福を願い、男の下を去った。
 人間界において一般的に囁かれている、魔物が自己愛のみに生きる動物であると言う認識は、ある意味間違いではない。魔物はたとえ人と娚になろうとも、その根幹、本能にあるのは性欲である。夫との間に、その営みさえあれば他はどうでも良いのだ。
 彼女にとって、夫とともに生活する事がなによりの幸福であることは間違いない。だが、彼女はそれにあえて背を向けた。共に生きるうちに、果たしてそれが夫にとっても幸福であろうかと疑問を抱くようになったのである。
 夫も、尋常の人間ではなかった。人間と触れることなく、獣のように生きていた男であった。一切の社会を持たず、殺し、喰い、寝るだけに完結していた男であった。それが、どこからともなく現われた唯一の他人である少女の存在によって、人間となったのだ。
 初めは、よかった。彼女は本能のままに男と交わり、同じものを見、同じものを食べて生活した。ところが次第に人間と成ってゆく男は、人間を求めるようになった。
 彼女は人間を恐れていた。嫌悪していたといってもいい。夫を愛せたのは、夫があまりに人間離れしており、本来の姿の片鱗も見せなかったからだった。その夫が、人間に近づこうとしていた。
 しかし彼女は夫を、嫌悪の対象として見ることが出来なかった。情が移っていた。人間であろうとも、夫は夫である。確たる最愛の者だった。最愛の者を、どうして憎めよう。
 夫の、人間を求める気持ちは日に日に増して行くようだった。それに、山での生活も、乱獲により限界に来ていた。彼女は、夫が幸福を得るためには人里に下りるほか無いことを悟った。彼女は男の下を去った。
 ワーラビットは、己の選択は正しいものだと、本心から思う。本心から思いながら、歩みを進める。しかし、その足元は、甚だ心もとないものであった。己の内臓を引っ掻き回す思いで男の下を走り去ってから、ずっとこの調子だった。
 ワーラビットはとうとう、蹲った。寒いわけでもないのに体が震えた。自分の体を抱きしめても、震えはとまらなかった。
 嗚咽が漏れていた。嗚咽は暗い森に木霊することなく、生い茂った草木に吸収された。

*

 岩上の男がヨハンに同行の希望を伝えた翌朝、一向は山を下りることとなった。伝えたそのときに準備を終えていた男はすぐにでも下りようとしたのだが、疲労を隠せないヨハンとミラベルがそれを制した。意外な事に男は何の反意も持たなかった。
 ヨハンとミラベルは、岩上で無視を頑なに決め込んでいた男の心変わりに疑念を抱かずには居られなかった。しかし男の本意がはっきりしない以上、それを問うのは得策では無いように思われた。男が自ずから話し出すか、あるいは引き返せない場面に直面するまでは、男に任せるほか無かった。男は必要最低限以外のことはなにも口にしなかった。
 男を交えた帰りの山行は、行きよりも遥かに楽だった。男に進むべき方角を伝えればそれは決して曲がらず、確実な経路を選んだ。方位磁針のひとつも用いないその能力は、卓越した登山技術とか山岳知識というよりも、野生動物のそれを思わせた。ヨハンとミラベルはここでも舌を巻いた。
 ミラベルは山行中、ずっと会話の種を捜していた。ヨハンもそれに則った。長い道のりにコミュニケーションは欠かせないものである。男が如何に超人的な能力を有し、旅に不自由が無くとも、所詮二人は尋常の人間に過ぎぬ。ストレスは様々な影響を与えるものである。もっともこれは必
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