慟哭

 人里離れた深い山の庵に、一人の男が住んでいた。たった一人で、である。男は猟師でも木こりでもなかったので里に降りることは無かったし、また人界に男のことを知るものは居らず、男を訪ねる者も皆無であった。男が誰を母とし、何処を故郷としたのか、そんな問いは初めから存在する必要が無かった。男は忘れられているのでもなく、禁忌でもなかった。まさしく人界に男は存在していなかったのだ。
 深い山で男は日の出と共に目を覚ますと、昼を木の実や若い芽の採取、野生動物などの狩猟に出かけ、日の沈むのを待たず茅葺の小屋へ帰り眠りに就いた。それが男の日常であった。男は山に息し、山を摂りこみ山に還元した。男の世界は山に完結していた。春夏秋冬、そのきまりの上に成り立つ山が彼の全てであった。そこに人としての温度は無く、無情なる自然の科学のみがあった。だが彼は辛いとも楽しいとも感じたことは無かった。彼は孤独であった。
 山は広く、深い。狩猟がうまく行かず、何日も食事をしないことが時としてあった。男は動物を効率的に仕留める、あるいは捕まえる罠の数々を熟知していたが、その技術を狩りに用いることは殆どなかった。彼にとって狩猟とは己の手で直接縊り殺して食べることであり、安易な道具によって間接的にその殺生を左右することではなかった。決して多くない隣人は、彼の手の中で死んでいった。しかし彼はその手の中で苦労をかけた獲物が死に往くとき、決まって涙を流した。彼の獲物は同じ山に住む家族であったのだ。男は自然を食べて生活したが、同時に自然を愛していた。自然に閉塞する彼の定めた唯一のルールは、皮肉にも人間としての能力を封印することであったのだ。だがそんな生死を分かつ問題にすら例外を認めぬ絶対的なルールにも、設けた特例があった。
 それは罠というには余りにも条件を満たさなかった。それは人間界においてトラバサミと呼ばれる、紐とバネを利用した単純かつ実用的な罠であった。トラバサミは森林限界を越え山頂に佇む大岩の尖塔の頂点に仕掛けられた。その尖塔に訪れる動物は恐らく居ないだろう。のみならずその罠には、おとりが無ければ罠への導もなかった。獲物のかかるはずの無い罠であった。しかし男は三日に一回、その周期を一日でも乱さずこの罠を点検した。男はこの無意味な罠に特別な情を抱いただろうか。この自然に生きる現実的な男が、何の情も抱かずにこの無意味な罠を仕掛けただろうか。されど、かつてその罠に獲物がかかったことは、一度たりとて無かった。

*

 決して乾かない、かすかに湿った土に、木漏れ日がうつっている。陽光は熱く、土を乾かすばかりか汗を滲ませるようであった。
 蒸し暑い昼であった。薄暗い森の中に動物の気配は無く、物言わぬ植物がその暑さにじっと耐えるようにあった。彼らの出した緑の汗はむせ返るような大気に溶け込み、さらに空間を濃厚にした。
 その中に、ひとつ、異質なものがある。濃厚な緑の臭いを掻き分けるように、その獣は二本足で立ち、前傾し斜面を這うように進んでいた。
 獣の進む速度は、速いとも遅いともつかなかった。獣は一定の速度を保ったまま、深い呼吸と共に斜面を登っている。獣の足には迷いが無かった。獣はどこかを目指して進んでいるようであった。
 やがて森林限界を越え、地層が変わっても、獣は同様の動きを保っていた。大小様々な岩を乗り越えてゆく。
 と、一際大きな岩を乗り越えようと大きく一歩踏み出した拍子に、獣の頭部がぽとりと落ちた。
 獣は落ちた頭部を手に取り一瞥すると、何事も無かったかのようにそれを懐に仕舞い、動きを再開した。人間の頭部だった。獣――男は、熊の毛皮を被っていたのだ。裸になった頭部が、明らかになる。
 それは先の熊の頭部よりは、幾分小さかった。伸び放題の髭に、出鱈目な長さの頭髪があった。その茫々とした黒い体毛の中に、深い暗闇が一対、鈍く光っている。時折毛皮の裏に、木の根を幾重にも束ねたような筋肉が見えて隠れる。
 男は確かに人間であったが、熊の毛皮に包まれた肉体は少しも不自然に見えなかった。岩のような太い肉体は毛皮と同化しているよう見えた。まさしく熊といえた。
 男は裸になった頭部で眩しそうに空を仰ぐと、再び上に向かって歩き出した。見上げる頂上には200メートルという巨大な尖塔がはっきりと確認できた。
 男に表情は無い。素足で、ごつごつした花崗岩を、まるで平地をゆくような一定のペースで、息も乱さず歩いてゆく。
 間もなく尖塔の下に立つと、男の鼻が小さく膨らみ、ついで耳が何かを捉えたようにひくついた。次の瞬間男は岩に飛びつくと、恐ろしい速度で頂上に向かって登りだした。段状の岩を一足飛びにし、指先ほどの手がかりを蹴って飛び上がる。男が尖塔の頂点につくのに、そう時間はかからなかった。
 果たして頂点の空
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