顔面、喉、胸。
払う、捌く、また払う、ダガーの間合いではレイピアには届かない。剣同士がぶつかる音が響く、また喉、大きく払う、生まれた隙にライは一足飛びに踏み込み──
「っは、ぐっ……」
右腕を突き出そうとしたところで、飛んできた蹴りがお腹に直撃した。
ダガーを取り落としてよろよろと後退る。そのまま、彼はぺたりと尻餅をついた。ライを蹴り飛ばしたブロムが、レイピアで自分の肩をとんとんと叩きながらこちらへと歩いてくる。
「剣に意識が向きすぎだ。いつも言っとろうが」
「ゲホッ、なにも、蹴らなくても」
「いつまでも覚えん方が悪い。ほれ」
ブロムが手を差し出す。ライは彼の手に掴まって立ち上がった。ブロムにはもう何年も稽古をつけてもらっているのに、一本取れたためしがない。
昔はどこかの国で兵士をやっていたというこの老人は、ライたちの氏族の中では唯一正式な剣術を修めた人間だ。ライの氏族の戦士は弓は使うが、みんな剣は全然だった。そういうわけで、彼らが剣を学ぶ必要があるときには必ず彼に教わるのだ。
「ま、今日はこんなところか」
ブロムがぐりぐりと肩を回しながら言う。続けて「おうい、終わったぞ」とどこかへ呼びかけた彼の言葉に、ライは顔を上げた。いつの間にか、少し離れた地面の上に、幼馴染の見慣れた姿があった。
「来てたの、エメリ」
「来たら悪い?」
「そんなこと言ってないだろ」
土の上に直接膝を抱えていた彼女は、お尻を払って立ち上がった。ブロムと二人、剣をしまって近づいていったライに、傍の手桶から布を絞って渡す。
ギシギシと身体中に走る痛みに悲鳴を上げながら、ライは受け取った布で顔を拭った。蹴られたお腹以外にも、右手をはじめとして筋肉は強ばり、さらには打たれた痣が全身にできている。痛いところを避けながら肩から腕へと拭いていっていると、目の前でその様子を見ていたエメリがおもむろに口を開いた。
「ライ、臭い」
「うぇ、そう?」
「汗臭いよ」
ライはすんすんと自分の体のにおいを嗅いだ。……自分ではよくわからない。言った当人のエメリは、それでいながら特に嫌な顔もせず澄ましている。まあ暑い中で激しく動いていたんだから仕方ない、面倒だが水場まで行って──そこまで考えて、彼はふと思い至ってエメリの方を見た。
「ね、エメリ、またあそこに行こうよ」
エメリは、大きな目でぱちぱちと瞬きした。彼女にはすぐにライの言っている場所がわかったらしい。「いいわ」と頷いて応える。二人で秘密の会話を始めたライたちを眺めて、ブロムは持っていた布を桶へ放り込んだ。
「なんだ、逢引きの相談か」
「えへへ、秘密!」
「まあええわい。存分にやってくれ。ワシは先に戻っとるからな」
満面の笑みのライに、ブロムが肩を竦める。すたすたと彼らから距離を取って、それからエメリはすうと息を吸った。僅かに開いた唇から息が零れていくのに従って、彼女の姿が変わりはじめる。
体は大きく、脚は強靭に、鱗に覆われ、腕は伸びて弓のようになった指の間に皮膜が広がる。変貌はまるで服を脱ぎ替えるように自然だ。
「見事なもんだな、いつ見ても」
ライの隣に並んで、ブロムがぽつりと呟く。ライも同感だ。「他のみんなより小さいけどね」と言うと、ブロムに「お前だってちびだろうが」と返された。見つめるライたちの目の前で、エメリは、輝く緑色の鱗を持つ竜に姿を変えた。
エメリが伏せると、翼がふわりと風を巻き起こす。ライは低くなった彼女の背中によじ登った。彼を背に乗せたエメリが身体を上げる。視線が高くなる。一歩、二歩、後退ったブロムがこっちを見上げている。
エメリが地面を蹴り、遅れて翼を打ち落とす。ぐん、とライの身体に負荷がかかり、地上のブロムの姿が一瞬にして小さくなった。全身に風を受けながら空中に身を乗り出すと、眼下に、大平原の中に寄り添うヴアの天幕が見える。
エメリはワイバーンだ。
この平原に暮らす騎馬遊牧民たちの例に漏れず、ヴア族もまたいくつかの生き物と関わりの深い生活を営んでいる。馬、羊……。ただし、ヴア族ではそれらに加えて、昔からもうひとつの生き物を暮らしの中に組み込んでいた。それが、エメリたちワイバーンだ。
数代前の祖が山から連れ帰ったというワイバーンは、ヴアでは他の氏族に対して優位に立つための力であり、同時に産業の重要な要素だった。一族に新しくワイバーンが生まれると、彼らは歳の近い男の子を選んで彼女たちのつがいにする。そうやって選ばれた二人は、やがて周辺の国々に雇われる竜騎士となるために育てられるのだ。ライとエメリは今のところ一族で一番幼いつがいだが、いずれは二人もどこかの国に雇われることになる。
人と、馬と、羊と、そしてワイバーンから成る国家。これが
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