儀式

 丈の高い下草が、彼が一歩踏み出すたびに足の下で折れる。細かな枝が進行方向を邪魔してくる。押しのけるには太く、体重を支えるには心許ない木々に苦労しながら、空也は急な斜面を進んでいく。
 「しろいし」を飛び出した空也は、まひと様の社を目指して山の中を駆けていた。いつもの山道だったらもっと辿りやすいのだが、あの山道の入り口には今は祭を見守りにきた村の住人たちが集まっているだろうから駄目だ。儀式の最中に社に忍び込もうとすれば見咎められるだろう。仕方なく、彼は別のルートを選んでいた。この道が社に通じていることはわかっているが、普段人が通らない道がこんなに歩きにくいとは思わなかった。おまけに出がけに引っ掴んできたもので片手が塞がっているせいで余計に進みにくい。
 霧絵から聞いた儀式のスケジュールから考えて、七海は祝詞を受けた後、とっくに山に入っているはずだ。もう社に着いていてもおかしくない。早くしないと……。空也は心を急がせていた。
 木々に遮られていた視界が、急に晴れる。

「……七海」

 社の前に、よく知った後ろ姿が立っていた。
 呟いた空也の声に、七海はゆっくりと振り返った。見慣れた制服でも私服姿でもない、白い行衣を纏っている。黒髪がよく映えている……。空也は場違いな感想を抱いた。完全に顔を空也の方に向けた彼女の目は、彼を見ているようで、しかしどこも見てはいなかった。
 その右手に、一振りの剣。

(あれが……)

 背後の社の扉が開いていることに、空也は気づいた。すると、あれが“まひと様”の本体だ。長さは70センチほどだろうか。日本の古い剣ということで古墳時代のようなものを想像していたが、西洋の幅広剣のようにも見える。社に納められていたときの錆に覆われた様子とは違って(そのときの姿を彼は知らないが)、今の剣は濡れたように、生きているように赤く輝いていた。
 遅かったか……?
 夢見るような眼差しで、七海は空也の方へ踏み出した。空也は戸惑った。すぐにでも彼女に駆け寄りたいが、今の七海はとても普段通りとは思えない。……彼が迷っている間にも、彼女は何かに導かれるような足取りでこちらへと歩いてくる。二メートルくらいにまで近づいたところで、彼女は握った剣を空也に向かって突き出した。

「っ……!」

 反射的に、空也は右手に握っていたビニール傘で剣を弾いた。
 彼女は──あるいは、彼女を操っている何かは、驚いたようだった。あの逸話集の話で、空也は剣を持った妻が人に切りつけたというエピソードを読んでいた。丸腰で“まひと様”と対峙することに不安を覚えた彼は、家を出るときに咄嗟に目についた傘を掴んできたのだった。
 とりあえず、無駄にはならなかった。今の一撃を防ぐのには役に立ったわけだから。だが次は無理だろう。一度相手と触れ合っただけで、空也はプラスチックとアルミの傘で金属の剣と相対するのがどれだけ無謀なことか思い知った。重さが違いすぎる。
 七海が剣を振り被る。空也は慌てて傘の留め具を外した。正面に向けて手元のボタンを押す。
 音を立てて傘が開く。振り下ろされた剣がビニールを切り裂いて、そして中央の骨組みに当たって止まった。目の前の数センチのところに赤い切先がある。すかさず、彼は握っている持ち手を思いきり捻りながら傘の縁を蹴っ飛ばした。傘と剣は絡まり合って、共に持ち主の手を離れて地面に転がった。

「つっ……」

 派手な音を立てた剣を目で追いながら、空也は傘を握っていた右腕を押さえた。いま傘を捻ったとき、大きく動いた剣の切先が腕を掠めていたのだ。今のところ、傷は赤い筋になっているだけで、少なくとも血が出ている様子はない。痛みも大したことはなかった。……後でアドレナリンが切れたときにどうなるかはわからないが。
 剣は弾き飛ばされたときの場所のままで転がっていた。心なしか、七海の手にあったときよりも色がくすんで見える。何事も起こる様子がない……。そのことを確認して、空也はほっと息をついた。
 瞬間、強い衝撃が胸にぶつかった。

「うわっ」

 空也は尻餅をついて、そのまま背中を地面に打ちつけた。石畳だったら頭を強打していたかもしれない。起きあがろうとして、彼は遅まきながら七海が自分の上に四つん這いになっていることに気づいた。
 両腕の間に空也を閉じ込めて、七海は至近距離から彼を見下ろしていた。長い髪が彼の頬に触れる。さっきのやり取りで行衣が乱れて、衿元に細い首から鎖骨にかけてのラインが剥き出しになっていた。少し視線を下ろせば胸元、が……覗けそう、だ。一瞬、そちらに視線が吸われそうになって、空也は心の中で自分に突っ込んだ。そんな場合じゃないだろう。
 代わりに、彼は七海の目をまっすぐに見返した。彼女の瞳はとろりと潤んで、まるで高熱に浮かされたと
[3]次へ
ページ移動[1 2 3 4 5 6]
[7]TOP [9]目次
[0]投票 [*]感想[#]メール登録
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33