どこかで鳥が鳴いている。
石段に腰掛けて、空也は頭上に影を落とす屋根を仰いだ。浮いた瓦の隙間に生えた苔や雑草がゆるい風に揺れているのが見える。風はここに座る空也もまた心地よく撫でていく。
山の中にあるその社は、今回あらためて整備されたことで、なんとか見られる程度には綺麗になっていた。社そのものを建て替えることも検討されたようだが、最終的に自治会はそこまですることもないと判断したらしい。実際、半世紀のあいだ放置されていたにしては、社は柱も梁もしっかりと残っていた。周囲には元々、この半世紀の間に生えた若木がいくらか生えていたが、それらも今回伐採されて見通しがよくなっている。山の中に突然現れた開けた空間は、社をすっぽりと覆う部屋のようだ。
“まひと様”の手がかりはまだ掴めていなかった。蚊帳の外にいる空也からしてみれば、やはりこの信仰はただの根拠のない迷信なのではないかと思えてくるくらいだ。七海から聞かされたあの一夜の体験も、彼女の思い過ごしなのでは……。
だが、七海本人はそんな風には考えていないだろう。彼女とはあれから一度だけ顔を合わせたが、祭が近づいてくるに従って不安は増しているようだった。七海のあんな様子は見たくない──彼の動機はそれだけだ。極端な話、彼女が気に病むことさえないのなら、“まひと様”の正体についてはでっち上げだって彼は構わないのだけれど。
「……」
空也は立ち上がって、小さな社殿に向かってたった数段しかない石段を登った。社殿は高床になっていて、そもそも人が入れる造りにはなっていない。納戸か物置くらいのものだ。今、彼の目の前には、鍵のかかった小さな扉があった。手を伸ばしてその金属製の取っ手に触れる。
この向こうに、おそらく御神体が祀られている。“まひと様”の本体だ。せめてこの扉を開けることができれば……。しかし、扉には鍵がかかっていて、しかも鍵穴は長い年月のうちに土埃で塞がっていた。そもそも鍵を村の誰かがちゃんと保管しているのかどうかすら定かではない。扉を無理やり壊すことはできなくはないが──祭を目前に控えた今このタイミングでそんなことをする度胸までは彼にはなかった。
ともかく、この場所からはもう何かを得られそうにない。空也は社殿に背を向けて石段を下りた。
祭は次の日曜に迫っていた。
◯
当日はなんということもない朝だった。
鐘や太鼓の音が聞こえてくるわけでもなく、店が出ているわけでもない。休みの日だから野次馬ぐらいは来るかもしれないが、それでもほとんどの住人は普段通りの日常を送るだろう。七海からしてみれば、少し拍子抜けしたような気持ちはある。
七海は事前に言われていた通り、村の公民館までやって来た。既に車が何台か停まっていて、中に人が来ていることがわかる。自転車を停めて建物に入った彼女を数人の大人が出迎えた。自治会の面々だ。
「おはよう。今日はよろしくお願いします」
「おはようございます。よろしくお願いします」
互いに挨拶を交わす。七海からしてみれば、もちろん顔は知っているが、こういうときでもないとなかなか話すことのない相手だ。とはいっても、彼女が“巫”に選ばれてから、既に何度か顔を合わせる機会はあった。
彼女が靴を脱いで上がろうとしたところで、彼らの後ろから、宮司の佐久間が顔を覗かせた。すでに袴姿に着替えている。七海に向かって佐久間はにっこりと微笑みかけた。
「おはようございます。あなたが七海ちゃんね?」
「……おはようございます」
七海はおずおずと頭を下げた。空也との会話の中で槍玉に上げたりはしたが、彼女こそ実際に話すのはこれが初めてだ。二、三言ごく軽い口調で言葉を交わした後で、佐久間は「それじゃ、儀式用の行衣に着替えてきてくれる?」と言った。
七海は彼女に案内されるまま、奥の座敷に向かった。村の公民館は平屋建てだ。大部分は板張りの集会場になっていて、その奥に二部屋ほど小さな座敷が備えられている。雨戸がすべて外されて明るい集会場とは対照的に、部屋の中は薄暗かった。
電灯のスイッチを入れる。部屋の隅に、白い和服が畳まれていた。これがきっと佐久間の言っていた行衣だろう。あまり見慣れないその服を開いて持ち上げてみて、旅館で着る浴衣みたいだな、と七海は思った。丈はふくらはぎくらいまであるだろうか。それと、
「……下は」
七海は周りを見回した。……どうやらズボンはないらしい。まあ、紐でちゃんと前を留めるようになっているから、はだけて脚が見えてしまうようなことはないだろうが……。彼女は顔を顰めて、とりあえず行衣を置いて自分の服のボタンに指をかけた。文句を言っていても仕方がない。
背後のドアの方を気にしながら服を脱ぐ。一度下着姿になって、行衣に袖を通した
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