その咆哮を、ヘルゲは覚えていた。
(そういえばあの時も、俺を助けるための咆哮だった)
厳密に言えば違うのかもしれないが、ヘルゲにはそう思えた。
目の前で、咆哮を受けて崖が崩れ、エインヘリアルが下敷きになった。二人とも土と岩の瓦礫に埋もれて、一声も聞こえなくなった。
やがて上空からばさりと羽音が聞こえ、ヘルゲの背後に降り立った。
ファーヴニルである。
「何故こちらに? フリストへの援護が取り決めであった筈ですが」
ヘルゲは慇懃に言ったが、命を救われたという恩義より約を違えられたという侮辱と怒りの色が籠もっていた。
ファーヴニルは素知らぬ体で、
「それでは負ける。フリストは善戦しているが、あれはやる。私の援護程度では戦局は変わるまい。それで来た」
フリストに頼まれたから、ではない。
ファーヴニルの言葉通り、ファーヴニルの参戦はヘルゲとの約束であり取引で、その従僕に過ぎないフリストの意見を容れる必要も心積もりもまったくなかった。
それでもヘルゲを助けに来たのは、ロスヴァイセとフリストの戦闘を目の当たりにした時の実感と戦術眼であった。が、それだけでもない。
「急げよ、ヘルゲ。フリストを死なせたくないならお前が助けに行け」
無茶である。出血もしているし疲労の色も濃い。そのヘルゲに最速で戻り、尚且つヴァルキリーと戦えとは、無謀もここに極まっている。
だが。
「ええ。そのつもりです。けれど、貴女はどうなさる?」
「約は咆哮一発。それ以上を授けるつもりはない。私はこれで帰るさ」
あくまでも約束は約束だと、ファーヴニルは言う。
(可愛げのない・・・・・・)
もしもファーヴニルに情というものがあるのなら、事がここまで及んでいるのだから助力してくれても良いではないか、とヘルゲは思った。が、すぐに打ち消した。
(いや、それは他力本願だ。元よりファーヴニルには関係のない話。寧ろここまで助力してくれたことに感謝するべきだ)
剣を収め、すぐにも走り出そうとするが、足がもつれる。疲労と出血の影響である。
「おい」
と、そういうヘルゲの背を呼び止め、ファーヴニルは自らの手首を爪で切った。
「水の代わりにもなるまいし、スッポンの生き血の代わりになど遠いが、飲め。今は少しでも喉を潤せ」
強引にヘルゲを向かせ、頭を持って手首を押し当てる。
ヘルゲの口内に、鉄臭いどろりとした液体が満ちた。
「そのまま聞け、ヘルゲ。約を果たしたが、予定に反したのは事実だ。が、貴様は命を助けられた。これを貸しとするか借りとするか、それとも相殺されたと見るか、どちらだ?」
ファーヴニルの血を、乳を飲む赤子のように嚥下しながら、ヘルゲは、
「私が借りていることにしましょう」
と言った。
命を助けられたのは間違いなく、ファーヴニルの戦術眼が確かなら、フリストもヘルゲも共倒れしていたことになる。
「そうか。お前がそういうなら逆らうまい。
さすがはヘルゲ。かつて私に挑んだだけのことはある」
母が子を撫でるように、ファーヴニルはヘルゲの頭を撫でた。
「思うにな、ヘルゲ。幸せを分け合いたいなら、辛さも分けるべきだ。フリストの辛さはお前の辛さ。お前の辛さはフリストの辛さ。そうしなければ幸せも存分に分け合えぬ。
あれは、表面上は変わらぬようだが、心にきっとロスヴァイセを殺すことへ抵抗がある。
かつての同輩で、自分が教えを授けたのだから、その苦悩は当然だ。
ヘルゲ、お前がその辛さを少し負ってやれ。
私は不幸な夫婦の子に産まれた。とうとう母は父の苦悩を背負ってやることが出来ず、そのために父は死に、母はこの世の終わりの分まで悲しむことになった。私はそういう夫婦を見て育ったんだ。
お前たちには、そんな可哀相な目に遭って欲しくはない。幸せを分けろ。辛さを分けろ。そうして初めて夫婦だ」
ヘルゲが口を離す。
まっすぐにファーヴニルの目を見ながら、
「無茶を仰る。まだ睦言が天地の全てというような若輩に、随分と難しいことを仰る。
だが叶えてみせる。幸せな私たちを貴女に見せて差し上げよう。いつか、貴女の心の傷が、それで癒えると信じて」
「ふ、生意気なことを言う。言った以上は叶えろ。ロスヴァイセなどに後れを取るなど許さんぞ」
ぴん、とヘルゲの額を弾いて笑う。
ファーヴニルが翼を広げ、飛び上がる。
「ファーヴニル、貴女は人が嫌いなのでしょう? 何故ここまで肩入れしてくれる」
ヘルゲが問う。ファーヴニルは穏やかに微笑みながら、
「人は嫌いだ。今でもな。だがお前はもう人ではない。私が肩入れする理由には足る。
人から変じた淫魔よ、借りは返さなくていい。お前になら貸したままにしておくのも良い。私とお前の関係は、そういうあやふやで無機質なものにしておくのが良いと思う。
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