「は。は。は」
息が切れる。
「は。は。は」
胸がはずむ。
「は。は。は」
えんえんと走り続けているようで、僕はこれと良く似たものを知っている。
ぐちゃりと崩れた人の形をした泥。
槍の矛先と共に向けられた身震いするほどの殺気。
愛する人の焼け焦げた死体。
どれもが怖くて走った。
どこを目指しているのかもわからずにがむしゃらに走り続けたあの感覚。
走って、逃げて、けど追いつかれて、なんだか良くわからないものになってしまった。
どうすれば良かったんだろう。
どうすればこうなったりしなかったんだろう。
あの時いわれたとおりに早く逃げ出していれば良かったんだろうか。
それは良くない。
だって、逃げたところで母さんは火に焼かれて死んでしまっただろうから。
考えてもわからない。
母さんはもう教えてくれない。
帰る家はもう灰になってしまった。
どこにもいけずにずっとうずくまる。
ここはどこ?
僕は誰?
僕は――なに?
ずっと考えていた。
わからないことばかりが僕の中にたまっていって、気がついたらぶくぶくと大きくふくれあがってしまった。
かえりたい。
あの場所にかえりたい。
それはどこにあるの?
僕の頭の中にある。
きびしくて、いたくて、つらかったけれど、母さんと過ごしたあの場所にかえりたい。
だから僕はどこにも行かず、ここでうずくまっている。
この気持ちが悪くて薄暗い森の中で、ずっと――死ぬまで。
ぐすぐすと鼻を鳴らしていたら、僕の目の前で星が輝いてはじけた。
ぱんぱんって二度、大きな音と一緒にはじけて消えた。
なにが起きたのか僕にはぜんぜんわからなくて、頬がじんじんと熱く痛みだしてからなんとなくわかってきた。
頬をひっぱたかれた。
「ようやく気づいたか。この泣き虫め」
まっ白でなにも見えないのは、いつもよりずっと明るかったから。
まぶしくてなにも見えなかったけど、この声が誰かは知っていた。
母さん以外の誰かの声で、覚えているのなんて一人しかいない。
あの、憎たらしくて乱暴な女の子だ。
何度も目をぱちぱちとしているうちに、白いばかりだった僕の目にあの意地悪な顔が浮かんできた。
栗色の髪と、白い顔と、長く曲がった二本の角。
間違いない。
いきなりなぐってきたあの女の子だ。
僕の上に乗っかって、地面に押し付けて、女の子はにやにやと笑っていた。
憎たらしかった。
「なんだその目は。わしに喧嘩で負けていながら、まだ判っていないのか? それとも記憶ごと吹っ飛んだのか?」
思い出した。
パンチと言って腕をぐるぐる回していながら、飛び蹴りをしてきた。
ずるい。
けど、僕はそういうずるい戦い方も母さんから教えてもらっていた。
なのに僕は今の今まですっかり忘れてしまっていた。
それが悔しい。
あれだけ毎日母さんのことを思い続けていたはずなのに、僕はなにも覚えていない。
「くけけ。悔しがったところで負けは負け。この喧嘩、わしの勝ちだ。文句はあるまいな? あっても聞かんが」
だから悔しい。
よりにもよってこの女の子に負けてしまったのが、悔しくてたまらない。
こわい顔をしてどれだけ睨みつけても、女の子は笑うばかりでこわがる素振りなんて一つも浮かべなかった。
どろどろになるまで――どろどろになってもなぐり続けたのに。
髪も角ももさもさの手や足も、全身泥だらけだったはずなのに、今は女の子の身体にかけらも残ってない。
泥どころか服もない。
なにも身につけず裸のまま、僕の上に乗っかっていた。
ぜんぜん膨らんでいない胸をじっと見つめていたら、女の子がにやっと笑った。
「ようやく気づいたか。敗者は勝者にその魂をも捧げるのだ――と言いたい所だが、気絶しておっても勃つものをおっ勃たせた男気に免じて、身体一つで勘弁してやろう」
温かくも寒くもなかったはずなのに、今は妙に温かい。
温かいから、寒気がした。
この温かさを、僕は知っていた。
「魔力を馬鹿食いしおって。おかげでわしはすっからかんだ。その代償に、すっからかんになるまで搾り尽くしてやる故、覚悟せよ」
女の子は意地悪に笑いながらぐいと腰をひねった。
僕の身体がびくびく震えた。
背筋の寒気がそのまま腰から女の子に吸い上げられてしまうような感覚。
嫌だ。
「……けひぃ!」
僕は叫んだ。
叫んで、起き上がって、女の子を突き飛ばそうとして、背中が浮かんだところであのもさもさの手に押さえつけられた。
「なんだなんだ。鳥のように鳴く奴め。そんなにわしの名器に感じ入ったか? 無理もない。何せわしは魔界一の――」
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