魔女と男09







 眠るといつも同じ夢を見る。

 見知らぬ土地を延々と駆け続ける夢。
 野を越え山を登り谷を下り川を横切りただただ走り続ける。
 風を切り草木を踏み散らし岩から岩へと飛び移りそれでも息を切らせて走り続ける。
 そんな夢。

 走り続ける自分以外誰もいなくなった世界で、何かに追われているのか何かを追っているのかも判らない。
 ただ動き続ける足を駆動させて、人目を忍んでいるのは判った。
 どれだけ駆けても誰とも出会う事がないのは、誰もいない場所を選んで駆けているからだ。

 夢の中でも妙に息苦しさを感じる。
 胸がぱんぱんに張っている。
 ひぃひぃと咽喉が甲高く鳴っている。
 脚を止めればその時点で倒れ込み動けなくなる。
 限界など当の昔に超えている。
 気力体力など当に尽き果て、それでもなお何かを燃焼させて駆け続けた。

 脚を止めれば、何かとてつもなく怖いものに追いつかれる。
 追いつかれる?
 俺は何かから全力で逃げ続けていた。

 追われている事に気がつくのも、夢の内だ。

 理由が明白になるとますます足は速まった。
 くたびれた犬のように舌を出して空気を吸い込む。
 胸が膨張して今にも弾けそうなほど痛む。
 いつしか獣になったように両手を使って地を駆けていた。

 怖い。
 怖い。
 怖い。

 どくどくどくと心臓は早鐘を打ち続ける。

 怖い。
 怖い。
 怖い。

 頭の中が恐怖で埋め尽くされていく。

 怖い。
 怖い。
 怖い。

 目にする景色が真っ赤に染まっていく。

 怖い。
 怖い?
 何が怖い?

 何から逃げているのかを悟った時、俺は逃げ続けていたものになっていた。






 俺は知っている。
 これは荒唐無稽な夢の断片などではなく、過去の記憶なのだと知っていた。






 朝の始まりはいつも感謝の祈りからだった。

「大いなる神よ。今日も地上に恵みの慈悲を分け与えられる事を感謝いたします」
「おおいなるかみよ。きょうもちじょうにめぐみのじひをわけあたえられることをかんしゃいたします」

 物心がついたときからこの言葉を口にしている。
 初めはただ相手の言葉を真似ているだけだった。
 ただ繰り返し続けるだけの中身のない言葉に、日々を積み重ねた分だけ祈りになっていった。

「健やかに。穏やかに。正しくある事を誓います」
「すこやかに。おだやかに。ただしくあることをちかいます」

 朝昼晩と、一日に定められた食事の前はいつも祈りを捧げた。
 この祈りが無意味だとは思わなかった。

 パンを作るために必要な麦を作るのは人の手だが、もたらされる恵みは目に見えないものだ。
 スープの元となる水も中の具も、恵みが得られなければ作る事は出来ない。
 だから顔も知らない、会った事もない大いなる神という誰かに感謝を捧げた。

 生活をしていたのは、森の中にひっそりと佇む小さな村だ。
 暮らすに必要な家と、一〇〇名にも満たない村人を養うだけの畑。
 村人たちはみな顔見知りで、顔を合わせれば挨拶を交わしていたが、隣人を食事に招いたりするほど密接ではなかった。

 今になって思い出しても、隣人が普段何をしていたかなど思い出す事が出来ない。
 村という共同体ではなく、五〇組ほどの見知らぬ親子がそれぞれ暮らしているという方が正しいのかもしれない。
 少なくとも、同じ村の子供同士で遊んだりする経験はなかった。

「……頂きましょう」
「はい」

 『母』と呼ばれる女性に促されて、初めて食事に口をつける。
 『母』と呼んではいたが、今になって思うと実際に血の繋がりを持った母親なのかどうかは定かではない。
 愛情を疑ってはいない。
 後になって客観的に判断すると、違和感が残るのだ。

 『母』から教えられたのは戦い方だけだ。

 祈りは模倣する内に身に着けてしまったもので、厳格にこうせよと教えられた事はなかった。
 畑に鍬の入れ方一つ、パンの焼き具合スープの味加減一つ教わらず、日がな一日『母』と戦いの訓練ばかり行っていた。
 それは異常なのだと気がついたのは、物心がついてずっと後になってからだったが、当時はそんな疑問を差し挟む余地もないままに最も身近な女性が母親だった。

 特別恵まれているとは感じなかったが、貧しさに喘いでいた訳でもない。
 訓練は過酷で時に生死の境をさまようほどであったが、それは初めの頃だけだ。
 祈りを身に着けていったのと同じように、それを日々の日常として受け入れた。

 飲み込みが早いとは言えなかったが、それでも上達はあった。
 上達を実感出来る瞬間は、過酷なだけの訓練も楽しく感じられた。
 生きる楽しさは確かにあった。

 感謝の念を忘れず、嘘はつかず、争わず、平穏とともにあった。
 村で
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