庭と月と稲荷と武士と

 ふわりと、夜風が修一郎の頬を撫でた。
 秋独特の冷たさをはらんだ風は風呂上りの火照った体にはちょうどよく、肌に残った湿気も涼しさに持っていかれた。
 夜、日が落ち、風呂で一日の垢を落としてから、縁側に腰掛け、酒を片手に庭を見る。これは修一郎の日課だった。
 庭には実を付ける程度には成長した梅の木と、敷き詰められた小石と、それを飾るように伸びた草花たちがあり、夜空には秋の月が浮かんでいた。
 そして勝手に庭に上がり込んだ、鈴虫を筆頭とした小さな客人たちも、そこかしこで歌っている。
 修一郎はこの庭が好きだった。
 この庭を見ながら飲む酒が、たとえ安酒であろうとも何よりも美味いのだ。
 修一郎は手に持った盃を、満足そうに煽る。
「相も変わらず好き者ですね、お前様」
 そうして空になった盃に、隣から新たに酒が注がれる。
「それに付き合うお前も相当な好き者だぞ、菊乃」
 寄り添うように腰掛ける妻に、修一郎は小さく笑いかけた。
「いいえ、私はお前様と居られることが何よりなんですよ」
「好き者め」
「あら、好き者どうしで素敵じゃありませんか」
 お返しにと、修一郎も菊乃の盃に酒を注ぐ。
 注がれた酒を小さく煽り、菊乃は一つ息をついた。それと一緒に狐の耳と尻尾がかすかに揺れる。
「とはいえ、好き者具合ではお前様に負けますよ。お前様は私のような稲荷を娶った好き者なんですから」
 既に少し酒が回っているらしく、菊乃の頬はほんのり赤く染まっていた。
「尻尾も一本、神社を構えられるほどの格もない小娘。そんな稲荷を娶った男が好き者でないわけがないじゃないですか。お前様なら、人の嫁も娶れたでしょうに」
「冗談も休み休み言いな。お前が来てなけりゃ俺は今もまだ独り身だよ。それに、何が小娘だ。俺を吹き飛ばせる程度には力を持ってるくせしてよ」
「あら、そんなこともありましたっけ」
 鼻で笑いながら肩を竦める修一郎に、菊乃は「忘れてしまいましたわ」と小さく笑って返した。
「お前様を吹き飛ばすなんて、今となっては無理な話ですよ」
「ほう?」
 不思議なことを言うと、修一郎は訝しげに菊乃を見やった。
 その様子に、菊乃は楽しそうに尻尾を揺らし、微笑んだ。
「だって、お前様に惚れているんですもの」
 自分の顔が赤くなるのを、修一郎は自覚せずにはいられなかった。
 恥ずかしいやら照れくさいやら、誤魔化すように酒を口に運ぶ。
 ただ慌てすぎたようで、気管に少し入ったらしくむせ返した。
「本当に仕様のない人」
 そういうところは初心なままなんだからと、着物の裾で口を隠しながら菊乃が笑う。
「うるさい、あんなこと真正面から言われて平静で居ろってのが無理だ」
「そのくせ、布団の上では私を激しく責め立てるんですからおかしな話ですよ」
 修一郎は顔がさらに赤く、熱くなったのを感じた。
 もう赤くなりきったと思ったが、どうやらまだ赤くなる余分が残っていたららしい。逃げるように酒を口に運ぶ。
「『相変わらず可愛い声で鳴くな、菊乃』でしたっけ」
「ぶっ!?」
 さらなる追い打ちに口から抗いようもなく空気が勢い良くこぼれる。しかし、辛うじて酒を吹き出す愚行だけは気力で回避した。
 そのかわり、さっきとは比べ物にならないくらい盛大にむせ返す羽目になったが。
「あら、この前お前様が言ったことですよ?」
 大丈夫ですかと背中を撫でる様が白々しい。
 今の修一郎から菊乃の顔は見えなかったが、恐らくは楽しげににやついているのだろうと容易に想像がついた。
「せめて口の中になにもない時にしてくれないか……?」
「だって、その方が面白いんですもの」
 とうとう本音を吐いたか。落ち着いてなお違和感を覚える喉を気にしながら修一郎は苦笑する。
 対照的に、菊乃は「あらあら」などと言いながら、楽しそうな笑顔を浮かべている。
「しかし、お前様は本当に初心ですこと。もっと余裕をもって構えられてもよろしいのに」
 もう子供でもありませんのよと揺れる尻尾は、修一郎を優しく、かつからかうように笑っている。
「そう言われても、なあ」
 今は布団を共にしている最中でもなければ、その直前というわけでもない。
 変に生真面目なところがある修一郎にとっては恥ずかしいものは恥ずかしいのだった。
 もちろん、修一郎も男だ。
 菊乃の艶めかしい唇やつややかな髪を見て、優しくも色っぽい眼差しに射ぬかれて何も思わないわけではない。月明かりに照らし出される扇情的な四肢を見て平常心で居られるわけもない。
 ましてや菊乃は愛する妻なのだ。思わなければ夫たる資格はない。
 ついでに言うならば耳を触られくすぐったそうに身をよじらせたり、尻尾を撫でられて楽しそうに色っぽい声を出す菊乃を見たい気持ちも、心の片隅に押しとどめてはいるものの存在している。
 
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