街灯の照らす没個性の夜道を歩き、小さな二階建てのアパートにたどり着いた。
帰る途中で買ったコンビニ弁当を傾けないように気を付けながら、アパートの一階、端から二つ目の扉の鍵を開けた。
「ただいま」
独身で恋人もいないので部屋で待つ人などいないのに、つい習慣で帰宅を告げてしまう。
「おかえり。ずいぶんと遅かったのお」
見慣れた六畳一間の部屋に、和服を遊女のように着こなした妖艶な美女がキセルをくゆらせながら返事をした。
「え? あ、す、すいません! 間違えました」
靴を脱ごうとしていたのを慌てて履きなおし、扉の外に飛び出した。
連日の激務で疲れているとはいえ、部屋を間違えるなんて情けない。しかし、同じアパートにあんな色っぽい美女が住んでいたなんて全く知らなかった。
ラッキースケベ未満を喜びながら、今度はしっかりと部屋の番号を確認した。
「俺の、部屋だよな?」
そういえば、玄関の鍵も開いたことを思い出し、頭に疑問符が飛び交った。
「何をしておる。外は寒かろう? 早う、中に入れ」
呆然ととしているところに扉が開いて美女が顔を出すと、部屋の中に引っ張り込まれた。
中は確かに見慣れた自分の部屋だった。畳んで部屋の隅に押しやっている布団、クローゼット代わりにしているカバー付きハンガーレール、ホームセンターで買った樹脂製のタンス、それとテレビに折り畳み式のちゃぶ台。独身男性の一人暮らしの部屋基本セット。
そんな部屋で、まるでこの部屋の主人かのように堂々と美女がくつろいでいる。
「なんじゃ? ぼーっと突っ立っておって。自分の部屋に帰ってきたのじゃ。ゆっくりくつろいではどうだ?」
訳が分からず立ち尽くしていると、美女はキセルをくゆらせながら、妖しく微笑んだ。
部屋は彼女がくゆらせるキセルの紫煙で少し艶めかしく薄暗く感じる。
そんな中、長い艶やかな黒髪を結い上げて、白く細い首が露わになってなんとも色っぽい。
襟をはだけた和服から豊満な胸の谷間がいやらしく目の毒だ。半分着物に隠れているが、紫桔梗の刺青が覗いている。刺青をする女性は好みではないが、彼女に限っては、それがひどく魅力的に見えて仕方ない。
「どうした? 妾の顔に何かついとるのか?」
余裕たっぷりな微笑みを浮かべる赤い口紅を塗った唇がとても淫靡でしょうがない。秋波を送る切れ長の目は、少し潤んでこちらの欲情を誘っている。
こんな扇情的な美女など一度見たら忘れるはずがない。一体、誰なのだと思うと、ふっと思い出した。
「桔梗さん。ああ、桔梗さんだ。ただいま」
思い出した名前を確かめるように口にした。どうして忘れていたのかわからない。
「何を呆けたことを。疲れておるのか?」
「そうかもしれません」
呆れたように言われて苦笑を浮かべて玄関で靴を脱いで家に上がった。
「また、このようなもので夕餉を済まそうとしおって。しょうのないやつじゃ」
背広を脱ぐためにテーブルの上にコンビニの袋を置いた中を覗かれて文句を言われた。
「はは、勘弁してくださいよ。仕事で疲れて自炊する気力もないですよ」
ハンガーに背広をかけて、ワイシャツを脱いで、部屋着のスエットに着替えた。
「おぬしに作らせるわけが無かろう。ほれ、用意しておいたからたんと食べるがよい」
テーブルの上に湯気と香り立つご飯、温かい豆腐と揚げの味噌汁、カレイの煮つけとタコと胡瓜の酢の物が並んでいた。
「これは? 桔梗さんが?」
「そんなに驚くことでもあるまい。妾でも、この程度の料理ぐらいはできるぞ」
座布団の上に座らされ、目の前に並ぶ家庭料理に目を白黒していた。
「何をしておる? 稲荷に教えてもろうたから、味は確かじゃ。早う、食べい。冷めてまで美味いとは保証せんぞ」
悪戯が成功したような表情をされた。確かに言うとおりだと、箸を持って「いただきます」と桔梗さんに言ってご飯を口に運んだ。
炊き立てのご飯がこんなご馳走だったとは。
温かいお味噌汁も心にしみる。ああ、甘辛いカレイの煮つけでご飯が進む。酢の物で口の中をさっぱりさせると、いくらでも食べれそうだ。
「本当は香の物も付けたかったのじゃが、漬けたばかりじゃからな。おぬしは古漬けが好きであろう?」
「え? そんなものまで? はい。古漬けが好きです」
酸味の利いた白菜の漬物に香りづけ程度の数滴の醤油をかけて食べるのは、俺にとっての究極の家庭の味だ。
「楽しみにしておれ、よく漬かっておる。自信作じゃ」
そういいながら、買ってきたコンビニ弁当を桔梗さんが開けていた。
「き、桔梗さん?」
「ん? おぬしは妾の作った夕餉を食べて、この弁当まで食べるつもりか? いくら若いとはいえ
[3]
次へ
ページ移動[1
2 3 4 5]
[7]
TOP[0]
投票 [*]
感想