魔物的哲学の森

 ある男が誰にも告げず、森に散歩に出かけた。男がとある沼の近くを通りかかったその時に、突如雷雲が沸き起こり、男は雷に打たれ死んでしまった。

 しかし、同時に沼に落ちた雷は、沼の中の物質を変質させ、その男と全く同じものを作ってしまった。

 沼から生まれた男は記憶も性格も思考もその雷に打たれて死んだ男と同じで、沼から生まれた男は何事もなかったように雷で死んだ男の家に帰り、雷で死んだ男がするように食事して、就寝し、翌朝には雷で死んだ男のしていた仕事に出かけて行った。

 沼から生まれた男は、雷に打たれて死んだ男と同一と言えるか?



「別人だな」

 黒い短髪をした目つきの鋭い痩せた男が見た目通りに冷たい声で言い切った。

「どうしてよ、ボビー。姿かたちだけじゃなくて、同じ記憶で、同じ思考を持っているなら、同じ人間と言ってもいいでしょう?」

 栗色の髪をボブカットにした、ちょっと勝気そうな女性がそれに反論した。

「じゃあ、リズ。散歩に行った男を散歩男、沼から生まれたものを沼男と呼ぶとする。もし、散歩男が散歩に行かずに死ななかったとしよう。沼男だけが生まれて家にやってきて、俺は散歩男だと言ってきたらどうする?」

 ボビーの反論にリズはうめいて言葉を失った。

「散歩男は散歩男の魂を持っている唯一の存在だ。魂は存在が個別に持つ物語と言ってもいいだろう。散歩男が死んだところで、散歩男の物語は終了している。沼男が散歩男と同じだとしても、沼男は沼男の物語をすでに持っている。それは散歩男とは違う物語だ」

 ボビーは容赦なく言葉を継いで、リズを言い込めた。

「じゃ、じゃあ、転移魔法は? あれが身体を分解されて再生されるものだとしたら? 転移魔法を使う前と後じゃ別人ってことになるんじゃない?」

 リズはちょっぴり涙目になって別の問題を引っ張り出してきた。

「それは同一人物だ。さっきも言ったように物語の連続性が重要なのだ。転移魔法で転移しようとした意識があることで物語は連続している。つまり、同じ魂だから同一人物と言える」

「じゃあ、意識しなかったら? 例えば、罠にかかっての転移だったり」

「罠にかかったという原因がある以上、罠にかかったということが彼の物語の中に書かれている。それならば、連続していると言える。しかし、雷で散歩男が死んだことと、沼男が生まれたことは偶然、同じ場所で起きったことなのだろう? そこに因果のないものは断絶しているから別だ」

「じゃあ、そこで雷に打たれたら沼から同じ体が生まれる罠なら同一人物だけど、偶然なら別人だって言うの? そんなのおかしいじゃない」

「おかしくはない。散歩男が死んだから死人に口なしになっているだけだ。散歩男が生きていればと考えれば、わかる話だ」

「じゃあ、さっきの罠が分身を生み出すものだったら、どうするのよ?」

「罠にかかった男を罠男、罠で生み出された分身を分身男とする。分身男は罠男の位置とは違う。つまり、分身男は罠男とは別の物語を歩み出したことになる。だから、罠男と分身男は別人だ……なあ、こんなつまらんことを議論するのは時間の無駄だと思うんだが、それよりも――」

 ボビーにため息をつかれ、リズは悔しさで顔を真っ赤にした。

「つまらないってなによ! ボビーのバカ!」

 リズは舌を突き出して幼稚に怒ると家を飛び出していった。

 それをボビーは呆然と見つめ、静かになった家の中でため息を一つついた。

「……また、やってしまった。まったく、いつになったら……」

 ポケットに手を突っ込んでボビーは天井を仰ぎ見て、ひとり呟いた。



「ボビーのバカ!」

 リズは一人、森の中を歩いていた。

 森の中を散歩しながら考えをまとめるのは、ボビーに教えてもらった方法である。だが、今のリズは思考力が怒りのために霧散していた。いくら歩いても考えがまとまらない。

「もう、イライラする! それもこれもボビーのせいなんだから!」

 そういえば、何日もお通じがないことも思い出し、八つ当たりした。しかし、すぐに肩を落としてため息をついた。

「今日こそ、ぎゃふんと言わせてやるつもりだったのに……」

 いつからだろう? 森の一軒家に住み着いた賢者であるボビーのところを訪れるようになったのは。

 村の人々は彼の知識に敬意を表しているが、どうでもいいことを考え続けている彼を不気味にも感じていた。

 彼女はそれが嫌だった。彼は物事を深く考えているだけのことだ。誰も気にしないことを気にしたから気づく新しい知識がある。知識を憶えているだけなら本の方が人よりも優秀だ。だが、彼は知識を見つける。それは本にはできない。だから、彼は本よりも賢い。

 彼女はそんな彼を好きになった。彼と並ぶためには彼と同じ
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