覚悟に茹だった頭とは裏腹に思考は冷静そのものだった。湯船につかった彼女を残し、おれは風呂場を後にする。
適当なフェイスタオルで頭の水気をふき取りながら、台所の棚からボウルを取り出して、冷凍庫から氷をかき出して水と一緒に入れる。その氷水に冷蔵庫の中の缶ビールを浸けられるだけ浸けた。一気に冷やすにはこうしてからグルグルと回すのがいちばん早いのだ、手が冷えるのを我慢して3分ほど繰り返す。その間、風呂場から彼女の鼻歌が聞こえてきて、落ち着かない気分を作業に没頭して誤魔化した。
次にベッドとその周りを片付ける。散らばっていた衣類を片付け、邪魔なタオルケットは畳んで下の収納棚に仕舞い、無造作に伸びていた充電用のケーブルは巻き取って部屋の端に避けた。消臭スプレーをベッドに吹きかけ、万が一にと用意していたコンドームを取り出したあたりで何とも滑稽なことをしている気分になったが、目的が定まった以上、思いつく限りのことはすべてしなければ気が済まなかった。自分なりの完璧な空間を準備することで緊張感を隠そうとしているのかもしれない。
そうして気の済むまで動いていたとき、不意に、風呂場のドアが開く音がした。
「タオルをくれ」
廊下に差しだされた手にそれらを渡す。ワシワシと拭い取る音を聞きながら、おれはバクバクと弾む心臓を落ち着けようと何度も深呼吸した。上ずりそうな声をどうにか抑えながら発言する。
「着替えは、ここに置いときます」
「ああ」
バスローブなんて上等なものはないので、大きめのTシャツと短パンを見繕った。下着は、などと野暮なことは考えない。
おれは、彼女を、抱くのだ。どうせ脱がすのだから、そんなものは後で考えればいい。
考えながらしかし、そのバカげた夢のような決意を嘲笑う自分が居ることも否定できなかった。この年まで童貞を貫いてきた男一匹、絶世の美女を前に致すことなど出来るだろうか。心配ないさとばかりに屹立する息子だけが頼りだった。緊張しすぎて勃起しない、なんて辛い事態だけは避けられそうである。
やがて拭き終わった彼女は着替えを手に取り、そのまま部屋に出てきた。まだ熱のこもった体は蒸気が残り、頬がほんのりと赤らんでいる。裸のままだがこちらを気にする素振りもなく、無造作にTシャツを頭から被った。脱いだときの儀式めいた仕草はまるで感じさせない生活感あふれる様子で、すっと袖を通して裾を伸ばす。大きなTシャツは、彼女の体にゆるくフィットするだけでなく、そのラインをほとんど覆い隠してしまった。どこかしら強調される彼女の豊かな胸の膨らみから引き締まった腰のラインは、今はTシャツの広いシルエットに紛れて見えない。
裾は尻を覆うあたりまで届き、いわゆるところの彼Tと化していた。メンズものを女性が着た時の全身ダボっと感である。世のカップルが味わっているであろうそれを大いに味わい、おれは心の底から感動した。彼女も着心地に満足したのか短パンを穿く様子はない。感動したまま、彼女に冷やしておいた缶ビールを差しだす。
「良ければどうぞ」
「おお、気が利く」
彼女は目を輝かせて受け取ると、手早くプルタブを引き上げてグイっと一飲みに呷った。プハァッと気持ちよさそうに息を吐く。
「やはりビールは風呂上りが至高だ、褒めてつかわす」
「光栄の至り」
冗談めかして応えるが、無邪気に喜ぶ彼女の顔を見て飛び上がるほど嬉しかった。良かれと思って備えたもてなしが刺さるのは格別である。
「それ、お前も飲むといい」
「あ、いえ、おれは大丈夫です。そんな強くないので」
「そうか。では遠慮なく」
彼女はあっという間に冷やしておいた分を飲み干してしまった。風呂上がりで紅潮しているものの、その顔色は一切変わらない。これまでで6缶以上、つまり10合分であるからして、とんでもないうわばみである。そも、おれの家に来るまでも飲んでいたかも知れないと考えるとさらに凄まじい。
おれが酒に強くない、というのは嘘だ。そこそこ飲む方だし、だから部屋に缶ビールが段ボールで置いてあるわけなのだが、あまり飲みたくない理由があった。いわゆる、酔い過ぎると男は射精しづらくなる……遅漏になるというアレだ。この後のことを考えると無闇に飲むのは躊躇われた。
空き缶を手早く片付けて部屋に戻ると、彼女は大の字でベッドに寝転んでいた。その目ははっきりと開かれていて眠そうではないが、付けっぱなしのテレビに意識は向いていなかった。
リモコンを手に取り、電源を落とす。
途端、部屋に沈黙が落ちた。
時刻は午前1時を回るところだ。
「あの……」
声をかけると、彼女は首だけでこちらを向いた。
意を決して話す。
「あなたは、何者なんですか?」
「さてな。招いたのはお前だ」
そうだ。そうなのだが、それがおかしい。
おれ
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