その夜は蒸し暑かった。
季節の変わり目、衣替えを意識し始める微妙な時期。気楽な短パン半袖姿では肌寒く、かといって長袖にするには暑いという判断に困る気温が波のように来る日々。そういう意味で今日のような分かりやすい気温は迷う必要がなくありがたかった。
ベッドに寝転んで明日の予定を反芻する。予報では晴れなので枕カバーとシーツを洗い、月始めの土曜日なので燃えないゴミを出す。しくじったら再来週まで持ち越しだからこれはマストだ。目覚まし時計代わりのスマホアラームをしっかり確認した。
そうして電気を消そうとリモコンを掲げたその瞬間、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。
思わず時刻を確認する。夜の22時半過ぎ、重ねていうなら金曜日だ。訪問にしては非常識なタイミングである。
気味の悪さを覚えつつ、抜き足差し足で玄関に向かう。時間が時間、酔っ払いか常識破りの訪問販売か、いずれにしても居留守一択だ。下手に気配を出すべきじゃない。
裸足のまま土間にそっと足を乗せ、ドアスコープから外の様子を伺う。集合住宅の外廊下、手すりの向こうには夜空が見えた。すぐおかしな点に気付く。
(誰も居ない……?)
蛍光灯に照らされた何の変哲もない廊下。そこには人の気配などなかった。広角いっぱい上下左右に目を向けて影も形もないことを確認する。もしかしたらドアスコープのすぐ真下に隠れているのかも知れないが、開けて確かめるのは躊躇われた。想像だけでも嫌すぎる。
(悪戯か、チャイムの故障かな)
深く考えてはいけない、適当なところで打ち切るべきと本能が結論を出した。やるべきことは明日にあるのだ、無駄なことに意識を割くべきではない。
だがそんな俺の考えをあざ笑うかのように、ピンポーンと、チャイムがもう一度鳴った。ドアスコープをまだ覗いているというのに、だ。視界には何者の姿も映っていない。
(嘘だろ?)
チャイムを鳴らすボタンはドアのすぐ横にある。壁に張り付きながらとか、よほどおかしな体勢から押そうとしない限りは姿が見えないなんてことにはならない。
その異様さを想像してゾッと背筋が凍りつく。
異常事態が起こっているとはっきり認識した。すぐにでもドアを離れるべきなのだろうが、固まった身体は容易には動いてくれない。シンプルなタスクに縋ろうとするかのように、目だけをグリグリと動かす。危険を見極めようという生存本能かも知れなかった。
まばたきも忘れドアスコープにかじりつくようにして外を眺めていると、不意に、ユラリと景色が歪むのを捉えた。
(なんだ……?)
魚眼的な見え方のせいではない。さながら水面のように、ユラユラと景色が揺れているのだ。じっと目を凝らしていくと、徐々に透明感が薄れて人の姿が浮かび上がっていく。
やがてそれは女体の輪郭を型取った。
ウルフカットの髪、気だるげな瞳、すらりとした頬、飴棒を突き出した唇。緩いタンクトップに薄く透けたカーディガンを羽織り、ショートパンツから眩しい太腿を惜しげもなく晒している、腕を組んで豊満な胸と谷間を強調し、ツパツパと飴をしゃぶっていた。つまらなそうに身体を揺らして佇むその姿に何故か懐かしさを覚える。
この女におれは見覚えがある。どころか胸の高鳴りを感じる。
なんでだ?
その解消しそうにない疑問を消化するよりも早く、女はにっこりと笑いかけてきた。黒髪に紫色を差し入れたインナーカラーがとても似合っている。
(開けろ)
命令が脳に響く。何も聞こえていない筈なのに、何故かクリアで明瞭としたイメージが届いた。おれは慌てて、カチャリとドアのロックを解除する。
ノブをひねって、ドアを開けた。
偉そうに佇む女がフっと口元を緩める。
「もう寝る気だったか?」
「いや、あの」
「いい、構わない」
言い訳がましく言いよどむおれをズイっと押しのけて部屋の中に入る。身長はおれより目線一つ低いのに威圧感がすごい、思わず身体を引っ込めてしまう。すれ違いざま、女の身体から居酒屋特有の油と酒の匂いがした。華金らしくどこかで飲んできたのだろうか。しかし顔色は少しも赤くない。
「適当に朝まで飲むつもりだったんだけどね。ハズレを引いた、まさか二次会もやらないとは」
ラフ過ぎる恰好からして財布のひとつも入りそうにない。どこぞの団体に紛れてタダ酒をかっくらったのだろうかと、失礼な想像が頭に浮かぶ。だが失礼ながら、ショートパンツはピッチリと肌に貼り付いていて財布の入る余地がなさそうなのだ。薄い生地のカーディガンにはポケットなど見当たらない。
「時代かな。どこも飲み放題は22時で終わってしまう……嘆かわしいね」
女は我が物顔で我が家を歩いて真っすぐ寝室へと進んでいった。向かいながら、まるで勝手知ったる我が家のような慣れた手つきで、通り道の冷蔵庫を開
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